【党文化の解体】第8章(9)

【大紀元日本10月13日】

2.党から離れない創作の習慣性

3)「党」から離れられない創作時の思考過程

党文化が文芸の創作に対してもたらした影響とは、人々の思考を縛り付けることだといえるだろう。

現在流行している時代劇の多くでは、宮廷の暗闘、官界の腐敗が充満している。党化の歴史観の影響を受けて、作者たちはこのような思考になったのだ。伝統文化を抹殺して、ドラマでは現代人の観念で古人の生活を演じて、数千年の歴史を誇る伝統の中国社会を暗黒な、残酷な闘争の世界と描写して、現在の中国共産党の「光明」を映そうとする。腐敗を古今東西の官界の共通病であるとして、中国共産党の腐敗を淡泊化し、中国共産党の暴政の成り立った原因を伝統文化に帰結しようとする。

ドキュメンタリーの文学作品はよく下記のようないくつか決まったパターンになる。災難が発生する場合、前文に挙げた例のように、党は如何に民衆に関心を払うことを描写しなければならない。官吏に関するテーマだったら、『孔繁森』などのように、彼は党の指導のもとで如何に人民に奉仕しているかを描写する。官吏が乱行や悪事を働く場合、最後に党が正義を守るように描写する。政策が誤った場合、最後に必ず党はどのように誤りを正したかを描写する。悪いことを官吏個人の無力に帰結して、最後にやはり党の「偉大、光栄、正確」を宣伝する。どんな経済成果も党の「賢明な政策」が導いた結果で、企業の発展は党と政府の「切実な配慮」がないと成り立たないもので、教育と科学技術の成果は「党中央」の「正しい指導」と「親切な配慮」がもたらした結果だ。優れた人材と一個人の成績は党の「育成」のおかげで、軍隊は更に「勝利裏に党の指導が不可欠」である。リストラされた労働者の生活状況が少し改善されたことでさえ党の「関心と支持」のおかげで、宗教界に於いても、「すべての業績は党と政府の指導、関心と支持のおかげで、党の指導を擁護して社会主義の道を歩むこそ、明るい将来を手に入れることがはじめて可能となる」。

中国共産党の腐敗はますますエスカレートして、民衆の不満は発散できないために、ここ数年来、『生死の選択』、『中国一の大事件』など「腐敗撲滅」を題材にした映画はとても歓迎される。実は、この類の作品は「文革」が終わった後に現われたいわゆる「傷跡文学」(代表作に『天雲山の奇伝』、『手錠をつけた旅人』、『華僑の愛国心』などがある)と同じように、歴史と現実に対していくら反省しても、思想の禁錮をいくら突破しようと試みても、結局、党文化の影響から脱出できず、作品の最後にまた組織と党を信じて、党に誤りを正す決心を持っているような内容に帰結する。一方、中国共産党によって作られた社会悲劇、民衆の苦難をただ「時代の悲劇」に帰結して、中国共産党の罪を淡泊化する。

中国の民間で、パロディの創作品がたいへん流行っている。例えば、雷鋒の画像と毛沢東語録をコンドームのパッケージに印刷する工場もある。この行為は党文化に対する反逆のようにみえるが、実際にはやはり中国共産党の作ったアイドルの権威性を認めることになるので、依然として共産党の影響から離れていない。

党文化は至るどころ存在して、中国人の生活のどの分野も「党」に占領されているため、中国人は党文化の言語を完全に捨てることができず、それを使って話さざるをえない。「……を徹底的に行う」、「……がきっと実現できる」など閃いたような広告用語でも、実は「創作が党文化から離れられない」例になっている。

二十世紀八十年代末から、古い歌をもう一度懐かしく歌うことがブームになっている。即ち、赤裸々に中国共産党を賛美するいわゆる「赤色の経典」を現代の楽器、あるいは今時の演じ方で蘇えらせることである。このような歌をもう一度歌いたくなるのは昔の生活を懐かしむだけで、決して「偉大な指導者を心から愛する」ためでないとみんなは言うが、一九四五年の後のドイツで、国民は昔を懐かしむためにヒトラーの賛美歌を歌うのか? あるいは、旧ソ連の民衆は昔を懐かしむために二千万の国民を殺したスターリンの賛美歌を歌うのか? 古い歌を懐かしくなる原因は、頭に浸透した党文化の要素を自分の人生の一部のように思っているからだ。

では、どうして文芸の創作は党文化の思惟から脱出できないのか、次に述べるいくつかの原因があると思われる。

一、長い間、党文化が充満する環境に染められて、そういう習慣になってしまった。

二、上層部からの圧力。

三、利益を求めるために進んでそうした。

四、党文化から脱出しようと思っても脱出できない。

全体的に言えば、中国共産党は高圧的な手段を通じて、党文化を唯一の「精神の糧」にして作者の頭に強制的に注ぎ込ませて、彼らの作品がまた大衆に影響し、最後に党文化を人々の考えの習慣にさせてしまって、創作の思惟は党から離れられなくなったのだ。

創作の思惟が党から離れられない現象は、文芸作品の創作に存在するだけでなく、中国社会の各分野に広く存在している事実を、読者に知ってもらわないといけない。具体的に題材選び、思考過程などはそれぞれ異なるが、創作の全過程も党文化の影響を受ける点について、どんな創作でも党文化から脱出していないのが現状だ。真に自由に創作して、自分の才気を発揮したいのならば、まず党文化の思惟から脱出しなくてはならない。

(続く)