【大紀元日本10月28日】河内の式内社、栗原神社は東大阪市吉原にある。平安時代に編纂された延喜式の全国神社一覧である延喜式神名帳にその記録が残るという古社であるが、現在では常住する神官はおらず、吉原地区の氏子によって組織された隣組が回り番で維持管理をしている。手入れの行き届いた、小さいながら清々しい神社で、いかにも地域の守り神という風情である。
10月の秋祭り最終日に神社境内でこども獅子舞が奉納されるというので
栗原神社で獅子舞を奉納する子供たち(撮影・Klaus Rinke)
出かけた。最終日の16日は前日までの雨もあがり、すっきりと秋晴れになった。だんじりのお囃子で盛り上がった境内に子供たちが、囃子方の女子は笛を手にハッピとねじり鉢巻き、獅子舞の男子は白い腹当てと黒パッチという出で立ちで勢ぞろいした。
河内地方には、江戸時代から稲の刈り入れが終わる頃になると、伊勢大神楽師(だいかぐらし)が獅子舞を踊って、悪魔祓いをして歩いたという。その影響で地域ごとに獅子舞が疫病や魔を祓い、幸せを招く郷土芸能として継承されるようになった。
戦争によっていったん消滅していた獅子舞が吉原地区でも平成4年に復活し、吉原獅子舞保存会が結成され、秋祭りの主役になった。現在では、こども獅子舞も始まり、小学生たちが保存会の人々の指導を得て、神社の境内で獅子の踊りを奉納するのだ。
獅子舞のルーツはインドと言われているが、中国という説もあるらしい。インドでは古くから遊牧民の間でライオンを霊獣として崇め偶像化したという。それがライオンの仮面ダンスを生み、中国、朝鮮半島に伝えられた。日本へは、仏教の伎楽とともに伝来したといわれているが、他にもインドから東南アジア、沖縄を経て伝えられたものもあり、地方によって様々な形がある。
獅子頭に付いた胴幕の中に頭遣いと、後ろ脚を担当する者が入って舞うスタイルは大陸から伎楽と伴に伝わったもので、「伎楽系」獅子舞と呼ばれている。これは西日本を中心に多くみられるものだという。一方、関東、東北地方で行われるものは、鹿踊り(ししおどり)と呼ばれ、鹿やその他の動物の頭をかぶり、腰につけた太鼓を打ちながら一人立ちで踊るもので「風流系」と呼ばれる。
9月、祭りに先立って子供たちは栗原神社の
練習をする子供たち(撮影・Klaus Rinke)
社務所で、獅子舞と横笛の特訓を受けていた。男子は獅子舞、女子は囃子方に分かれ、夕方2時間近くみっちりと練習する。指導するのは吉原獅子舞保存会のメンバーで子供たちとは孫ほどの年齢差がありそうだ。まさに手取り足取り、繰り返し根気よく指導する。元気な子供たちは、すでに祭りのノリである。練習の前に、保存会会長の八尾久さんと笛を担当する中谷孝さんの話を聞くことができた。
囃子方(笛)の中谷さん(撮影・Klaus Rinke)
保存会会長、八尾さん(撮影・Klaus Rinke)
八尾さんは小学校の先生で「獅子舞を踊るのは5年、6年の高学年なので、上手になったらすぐに卒業なんですよ。だから毎年、新しい子供たちに教えることになります」「子供にとってはいい思い出になるでしょうし、地域とのつながりを大切にする心を育んでくれたらいいなと思います」と話す。
中谷さんは会社役員で、出張や転勤は付き物だが、祭りには必ず参加するという。「16年間、東京勤務が続きましたが、祭りにはいつも帰ってきましたよ。仕事より祭りの方が大切なぐらいです」と笑った。「いい神社でしょ。うちの子供たちの七五三を栗原神社で祝いましたが、よい雰囲気で思い出に残る祝をしてやることができました」と語る。神主は契約している近隣の神社から出張してくるという。
駅から栗原神社までは歩いてせいぜい15分ほどの距離だが、途中3つの神社が目に入った。各神社の色の異なる祭礼幟が道の両側にずらりと並ぶ。古い土地柄、町ごとに神社があり、今なおその神社が人々をつなぐ役割を担っているらしい。
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