順治初年 黄蘗禅師讃世語七絶十三首

自甲子至辛丑十八年
日月落時江水長
青猿相遇判興亡
八牛運向●(さんずいに真)黙盡
二九丹従壑谷蔵

 中国の預言書には、有名な「推背図」を始めとして、「焼餅歌」「右右碑」「諸葛碑」「鉄冠数」など数多くが遺されているが、その多くが中国そのものの国運や政局を謳ったものであったために、一般大衆の人心を揺籃する政治上の邪魔物として、歴代王朝政権によって禁絶が繰り返されてきた。このため、推背図などには、いくつかのバージョンがあるが、その中でも、清朝時分の黄蘗禅師が遺したこの預言「七言絶句十三首」は、六十干支によって描写する時代を明確に示しているところに大きな特徴がある。禅師の預言については、解釈に諸説があり、清朝の末期からその滅亡を描いたものであるとの向きもあるが、本篇では、清朝滅亡から辛亥革命を経て、中国国内の大動乱から終戦後の中国までのスパンで考えて読み解いてみた。

詩文解釈

順治初年 黄蘗禅師讃世語七絶十三首
 順治初年は、万年暦によると清朝元年、即ち満州族であった清朝軍が、漢民族の明朝を滅ぼし新政権を樹立した年で、公暦では1644年に当たる。黄蘗禅師がこれを顕わした年が、大陸動乱の発端となった王朝元号の元年・節目であることが興味深い。

自甲子至辛丑十八年
 万年暦によると、いろいろな期間が想定できるが、1644年以降だと一番濃厚なのが、公暦1944年から1961年だ。この間、大陸では抗日戦争が終局に向かいつつあり、日本の敗戦が決定した1945年からは国共内戦へと発展していく。

日月落時江水長
 「日月落時」、「日」は日本、「月」は中国を暗示、共に日中戦争によって疲弊し国力が消耗しきった姿を「日月落時」と表現している。終戦時、中国は戦前の人口8億人が4億人に、日本は8000万人から4000万人にまで減少した。その後、日本の敗戦が決定するにつれ、大陸国内には欧米先進国を始めとする外国勢力が軍隊を駐留させる地域、地区はなくなり、文字通り中国国内の外患が取り払われた。「江水長」これを中国大河の象徴である長江の水が長引く姿で表現している。

青猿相遇判興亡
 「青」は、毛沢東率いる新興の中国共産党勢力。「猿」は、日本の陸士出身であった武勇に秀でた蒋介石率いる国民党勢力だ。これが再び遇いま見え、大陸で雌雄を決する国共内戦に発展、結果はプロレタリアート独裁を叫んで民衆の煽動に成功した八路軍が国民党軍に勝利し、1949年10月に北京に中華人民共和国を樹立する。

八牛運向●(さんずいに真)黙盡
 大陸での国共内戦に破れた国民党政府は、当時の中華民国の首都南京をすてて、台湾に亡命する。その間、非合法なはずの中華人民共和国政府が、共産主義勢力によって大陸人民の指導をし、着々と国内の赤化を進めるが、戦勝国や国際社会(八牛)は、戦後の国内経済の立て直しと新しい国際社会の枠組み作りに奔走し、中国国内の情勢に黙して語らず、敢えて干渉しなかった。

二九丹従壑谷蔵
 「二九」とは、易でいうところの「沢地翠」の卦、即ち中国の一般大衆を顕わす。これらが、新政権に付き従うのに、谷に隠されてしまうとは、一体どういうことだろうか?中国の農民階級や労働者階級の煽動に成功した毛沢東は、国共内戦に勝利した後、国内の政権基盤をさらに強化安定させようと、「資産階級狩り」「右派インテリ狩り」「国民党残党狩り」などの国内粛正に乗り出す。これは、まだ粛正の第一弾にしかすぎず、その後60年代中盤からは本格的な「文革」の嵐へと中国大陸は突入していくことになる。

(編者注:本文は作者の見解を表すものであって、大紀元時報の見解を代表するものではありません。)

つづく 清朝:黄檗禅師の預言(その2)