≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(5)
私たちが中国へ旅立つ前、父は祖母の家へ行って、中国行きについて相談しました。祖母は、父が家族全員を連れて行くことに反対でした。父は祖母にとって一人息子で、その上祖父が早くに亡くなったため、祖母は随分苦労しながら一人で父を育てました。それなのに、今父は日本を遠く離れ、見知らぬ国へ行こうとしています。祖母はどうして安心できるでしょうか?
その上、私と姉はそのときすでに東京で小学校に上がっており、私は2年生で、姉は4年生でした。祖母は、父たちが行こうとしているところがどんなところなのか知りませんし、そこの条件がどうなのか、将来子供たちが学校に通うようになったとき、そこに適当な学校があるのかどうかもわかりませんでした。もし、行ったところが想像と全く違っていたら、後悔しても間に合わない、そうなったら、五人の子供を含め家族はどうするのか、と心配しました。
しかし、父はやはり政府の呼びかけを信じました。当時の日本人にとって、中国へ行くというのは、今の日本人がヨーロッパへ行きたがるのと同じように、大きな憧れでした。ひょっとしたら、多くの若者が、自分たちが行くところはどこも上海のような大都市だと考えていたのかもしれません。それに、当時の政府が大々的に若者たちに、中国は自分の才能を思いっきり発揮できる広いところで、またとないチャンスなので、中国へ行こう、と呼びかけていたのです。……結局、父は、友人の新井さんたちと一緒に、「長嶺八丈開拓団」に入りました。
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私たちが父と一緒に船に戻ったとき、母はもう弟の力を寝かしつけ、みんなの布団を敷いてくれていました。しかし、私はもう全く眠くありませんでした。おそらく、ここ数日間、荒波の船上で
私たちは、羅津市を離れてからは、暴風雨に遭うこともなく、好天に恵まれ、さらに2日間船旅が続きました。
第二章 裏切られた期待と開拓団での生活
私たちがバスから降りたとき、目に飛び込んできたのは、一面の荒れ果てた山と野原でした。3月の黒龍江省はまだとても寒く、地面もまだ凍っていました。大地は一面枯れた雑草に覆われ、山にも緑は全くなく、麓に新築のレンガの平屋が幾棟か並んでいるだけでした。
大人の人にとって「何とかして生きていく」ということが何を意味しているのか、8歳の私には分かりませんでしたが、私たちが中国の辺鄙な田舎に来ていることは確かでした。そして、「何とかして生きていく」という父の慰めのことばが、その後自分が一人で向き合わなければならない運命になるとは思いもしませんでした。
それからしばらく経って学校が始まり、私は毎日小道を通って山の麓にある学校に通うようになりました。
私は次第にそこの生活に慣れました。入学して間もないある日のお昼、食事(昼ごはんは学校が先生と生徒のためにまとめて作ってくれる)が終わってグランドで縄跳び遊びをしていると、突然深緑色のトラックがやってきました。軍人のような若い人が何人か降りてきて、車から荷物を下ろし、総務室に運び始めました。多くの先生方も手伝っていました。
開拓団にきてから、自分がだいぶ成長し、多くの事を知るようになったと感じました。そして、両親がとても大変で辛抱していることも理解でき、心から母の手伝いをしたいと思い始めました。
私たち一家6人の開拓団での生活は、とても簡素で非常に短いものでしたが、私の生涯において非常に特別な意味を持っていました。
この時、乗客の皆は船を降りて上陸する準備をしていましたが、母は私が見当たらないのに気が付くと、あわてて至る所を探しました。母が呼んでいるのを聞きつけて、私はすぐさまそっちのほうを見ました。すると、母は一番年下の三番目の弟「力」を背負い、父は左手に一番上の弟「一」を、右手に二番目の弟「輝」を引いていました。