≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(6)
私たちが父と一緒に船に戻ったとき、母はもう弟の力を寝かしつけ、みんなの布団を敷いてくれていました。しかし、私はもう全く眠くありませんでした。おそらく、ここ数日間、荒波の船上で寝てぱかりだったからでしょう。それに、その日は一日中、羅津市の港で思う存分遊び、すべてが新鮮で面白くてしようがなかったからです。そのとき私は、両親と一緒にこの旅に出てよかったと思い、自分は運がいいとも感じました。たぶん、父もそのとき私と同じ考えを持っていたかもしれません。
父が、中国は朝鮮より何十倍も広く、日本よりも何十倍も大きいと話してくれたことがあります。私はそのとき、地理的知識を全く持っておらず、土地の広さの概念も全然ありませんでした。実は、両親も中国に行くのは初めてで、中国のことは全く知らず、ただ、本や新聞で読んだだけだったのです。
半世紀後に、数々の困難を乗り越えて、どうにか日本に帰ることのできた私は、父の当時の友人であった新井さんを訪問しました。新井さんは私に、「当時の日本人、特に強い志を抱いていた若者は、中国に渡って才能を発揮できることに憧れていた。今の日本人がアメリカやヨーロッパに行きたがるのと同様に、中国へ行くのはみんなが憧れる名誉なことだったのだ」と話してくれました。
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私たちが中国へ旅立つ前、父は祖母の家へ行って、中国行きについて相談しました。祖母は、父が家族全員を連れて行くことに反対でした。父は祖母にとって一人息子で、その上祖父が早くに亡くなったため、祖母は随分苦労しながら一人で父を育てました。それなのに、今父は日本を遠く離れ、見知らぬ国へ行こうとしています。祖母はどうして安心できるでしょうか?
私たちは、羅津市を離れてからは、暴風雨に遭うこともなく、好天に恵まれ、さらに2日間船旅が続きました。
第二章 裏切られた期待と開拓団での生活
私たちがバスから降りたとき、目に飛び込んできたのは、一面の荒れ果てた山と野原でした。3月の黒龍江省はまだとても寒く、地面もまだ凍っていました。大地は一面枯れた雑草に覆われ、山にも緑は全くなく、麓に新築のレンガの平屋が幾棟か並んでいるだけでした。
大人の人にとって「何とかして生きていく」ということが何を意味しているのか、8歳の私には分かりませんでしたが、私たちが中国の辺鄙な田舎に来ていることは確かでした。そして、「何とかして生きていく」という父の慰めのことばが、その後自分が一人で向き合わなければならない運命になるとは思いもしませんでした。
それからしばらく経って学校が始まり、私は毎日小道を通って山の麓にある学校に通うようになりました。
私は次第にそこの生活に慣れました。入学して間もないある日のお昼、食事(昼ごはんは学校が先生と生徒のためにまとめて作ってくれる)が終わってグランドで縄跳び遊びをしていると、突然深緑色のトラックがやってきました。軍人のような若い人が何人か降りてきて、車から荷物を下ろし、総務室に運び始めました。多くの先生方も手伝っていました。
開拓団にきてから、自分がだいぶ成長し、多くの事を知るようになったと感じました。そして、両親がとても大変で辛抱していることも理解でき、心から母の手伝いをしたいと思い始めました。
私たち一家6人の開拓団での生活は、とても簡素で非常に短いものでしたが、私の生涯において非常に特別な意味を持っていました。
第三章 嵐の訪れ:父との永遠の別れと苦難の逃避行 父との永遠の別れ 1945年8月、稲妻と雷が激しく交じり合う嵐の夜、風雨がガラス窓を強く叩き、大きい音を立てて響き渡っていました。