≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(12) 「裏切られた期待」
開拓団にきてから、自分がだいぶ成長し、多くの事を知るようになったと感じました。そして、両親がとても大変で辛抱していることも理解でき、心から母の手伝いをしたいと思い始めました。以前東京の家に住んでいたときは、祖母と姉がいましたが、いま母はお腹が日に日に大きくなり、赤ちゃんを産もうとしています。園子姉さんがいないため、私が長女の役目を果たし、母を手伝って弟たちの面倒を見なくてはなりません。お姉さんとしての責任感と自信が一気に強くなりました。
しかし、私の心も複雑となり、母のことをすごく心配するようになりました。もし、東京へ帰る途中で赤ちゃんが産まれたらどうしようとか、途中でバス、列車、船を転々と乗り換えなくてはならない、船の上で出産すれば、ベッドも浴室もあるから、それが一番望ましいとか、いろいろと悩みました。今振り返ってみれば、私の心配通りになっていたほうが、むしろ我が家にとって最善の結果だったはずです。ただその時は、天が私に試練を与えるための暴風雨がすぐにもやってくること、そして私の如何なる心配も無用であることなどは、知る術もありませんでした。
ある日曜日、私は母に、「母さんはいつ弟を生んでくれるの」と聞きました。私のこの突然の質問に、母は一瞬びっくりした様子でしたが、すぐに優しく「秋の収穫が終わった11月よ」と答えました。母は、「お正月前なのね。もし東京に戻ることができて、兄弟も一人増えれば、きっとおばあちゃんが喜ぶわね」という私のことばに微笑むと、畑に行って黙々と農作業を始めました。私はそのとき、長女としての自覚が芽生え、母の畑仕事を手伝わなくてはならないと思い、母の後を追って、一緒に野菜の苗を植え始めました。
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私は次第にそこの生活に慣れました。入学して間もないある日のお昼、食事(昼ごはんは学校が先生と生徒のためにまとめて作ってくれる)が終わってグランドで縄跳び遊びをしていると、突然深緑色のトラックがやってきました。軍人のような若い人が何人か降りてきて、車から荷物を下ろし、総務室に運び始めました。多くの先生方も手伝っていました。
私たち一家6人の開拓団での生活は、とても簡素で非常に短いものでしたが、私の生涯において非常に特別な意味を持っていました。
第三章 嵐の訪れ:父との永遠の別れと苦難の逃避行 父との永遠の別れ 1945年8月、稲妻と雷が激しく交じり合う嵐の夜、風雨がガラス窓を強く叩き、大きい音を立てて響き渡っていました。
苦難の逃避行 父たちが行った後、学校では授業がなくなり、子供たちは外へ出ないようにと言われました。開拓団本部の若い男の人たちはみな前線に送り込まれ、残ったのは、団長と年配の男の人たち、それに女・子供だけでした。
そのとき、母は私の頭を軽くなでました。出発するので、お母さんの服をしっかりつかんでおくようにということでした。私は母にぴったりくっついて歩きました。不思議なことに、一旦歩き出すと何も怖くなくなり、落ち着いて来ました。私は自分に、決して遅れてはならない、と言い聞かせながら、弟の手をしっかり握りました。
私は左右の手で一人ずつ弟の手を引き、3人で横になって山を一気に下りて行きました。そこにはすでに何人か大隊の人が私たちを待っていました。後ろを振り返ってみると、隊列は今朝ほどにはかたまっておらず、人がバラバラと下りて来ており、まだ山の上まで来ていない人もいるようでした。
日が沈み、周りは暗くなり始めましたが、前方にはまだ何の建物も見えず、至るところ林でした。大隊を率いる人が、今晩早いうちに目的地にたどり着くために、道を急ぐよう、皆を励ました。