≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(15) 「苦難の逃避行」

苦難の逃避行

 父たちが行った後、学校では授業がなくなり、子供たちは外へ出ないようにと言われました。開拓団本部の若い男の人たちはみな前線に送り込まれ、残ったのは、団長と年配の男の人たち、それに女・子供だけでした。

 ここ数日、団長は一軒一軒回り、何か聞いてはノートに書き取っていました。そして、いつでも命令があればすぐに出発できるよう準備しておくよう、伝えました。ある日の夜、飛行機が開拓団本部の上空を飛んで行くのが見え、照明弾も見かけました。

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第三章 嵐の訪れ:父との永遠の別れと苦難の逃避行 父との永遠の別れ 1945年8月、稲妻と雷が激しく交じり合う嵐の夜、風雨がガラス窓を強く叩き、大きい音を立てて響き渡っていました。
そのとき、母は私の頭を軽くなでました。出発するので、お母さんの服をしっかりつかんでおくようにということでした。私は母にぴったりくっついて歩きました。不思議なことに、一旦歩き出すと何も怖くなくなり、落ち着いて来ました。私は自分に、決して遅れてはならない、と言い聞かせながら、弟の手をしっかり握りました。
私は左右の手で一人ずつ弟の手を引き、3人で横になって山を一気に下りて行きました。そこにはすでに何人か大隊の人が私たちを待っていました。後ろを振り返ってみると、隊列は今朝ほどにはかたまっておらず、人がバラバラと下りて来ており、まだ山の上まで来ていない人もいるようでした。
日が沈み、周りは暗くなり始めましたが、前方にはまだ何の建物も見えず、至るところ林でした。大隊を率いる人が、今晩早いうちに目的地にたどり着くために、道を急ぐよう、皆を励ました。
その日の夜、馬蓮河屯に着きました。そこはとても大きな村で、西には牡丹江から図們(トゥーメン)に行く直通汽車が走っており、南には大きな河・馬蓮河があり、鉄道の東側、村落の外にはまた小さな川があり、村の人々は皆その川で洗濯し、子供たちはそこで水遊びをして遊んでいました。
しかし、新たな嵐が密かに私たち家族に忍び寄り、私たちのすべてを奪い、家族の運命を決めたのです。
伝染病の流行 しかし、この時期、全ての人にとって、さらに恐ろしい災難が降りかかろうとしていました。この頃になると、人々はすでに明らかな栄養失調になり、体力は衰弱しきっていました。加えて、着替えの服がなかったので、衣服にシラミが発生しました。そんなとき、恐ろしい伝染病が流行し始めたのです。