≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(17)「苦難の逃避行」

私は左右の手で一人ずつ弟の手を引き、3人で横になって山を一気に下りて行きました。そこにはすでに何人か大隊の人が私たちを待っていました。後ろを振り返ってみると、隊列は今朝ほどにはかたまっておらず、人がバラバラと下りて来ており、まだ山の上まで来ていない人もいるようでした。

 石原おばさんは母の背中から弟を下ろすのを手伝ってくれ、母にそこでしばらく休むように言いました。先にそこに着いていた年配のおじさんたちが、向こうの岩の隙間から流れ出ている水は飲めると教えてくれました。そこで、おばさんはお礼を言うと、すぐに私たちの2つの水筒と自分の水筒を持って水を汲みに行きました。母は申し訳なさそうにおばさんにお礼を言うと、私に一緒に手伝いに行くよう目で合図しました。私は喜んでおばさんと一緒に、岩の隙間のところまで水を汲みに行きました。おばさんは水を少し汲むと、まず私に飲ませてくれました。私は喉が渇いてしかたなかったので、「おばさん、ありがとう」と言うと、ゴクゴクと飲みました。水はとても冷たくて美味しく感じました。おばさんはそれは泉から湧き出た水だと教えてくれました。

 私とおばさんが水を汲んで帰ると、母はまず2人の弟に飲ませてから、食べ物とお新香で腹ごしらえをさせてくれました。しばらくしたらまた路を急がなければならなかったのです。おばさんが言うには、今日中になんとしても「義勇隊キャンプ」に辿り着かなければならならないそうです。私は母に小声で「あとどれくらい?いつ目的地に着くの?」と聞きましたが、母は知らないし、おばさんたちも着く時間ははっきり分からないようでした。ただ、どうもまだ半分も歩いていないようで、目的地に着くのは、おそらく夜中になるだろうということでした。

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そのとき、母は私の頭を軽くなでました。出発するので、お母さんの服をしっかりつかんでおくようにということでした。私は母にぴったりくっついて歩きました。不思議なことに、一旦歩き出すと何も怖くなくなり、落ち着いて来ました。私は自分に、決して遅れてはならない、と言い聞かせながら、弟の手をしっかり握りました。
日が沈み、周りは暗くなり始めましたが、前方にはまだ何の建物も見えず、至るところ林でした。大隊を率いる人が、今晩早いうちに目的地にたどり着くために、道を急ぐよう、皆を励ました。
その日の夜、馬蓮河屯に着きました。そこはとても大きな村で、西には牡丹江から図們(トゥーメン)に行く直通汽車が走っており、南には大きな河・馬蓮河があり、鉄道の東側、村落の外にはまた小さな川があり、村の人々は皆その川で洗濯し、子供たちはそこで水遊びをして遊んでいました。
しかし、新たな嵐が密かに私たち家族に忍び寄り、私たちのすべてを奪い、家族の運命を決めたのです。
伝染病の流行 しかし、この時期、全ての人にとって、さらに恐ろしい災難が降りかかろうとしていました。この頃になると、人々はすでに明らかな栄養失調になり、体力は衰弱しきっていました。加えて、着替えの服がなかったので、衣服にシラミが発生しました。そんなとき、恐ろしい伝染病が流行し始めたのです。
生まれたばかりの弟の死 すでに十月に入り、次第に冷え込んできました。団長はすでに段取りを済ませ、開拓団全員をひきつれて沙蘭鎮の王家村に帰り、そこで冬越えをしようとしていました。これは、私たちにとって三回目の逃避でした。今回の移動は主には寒さと餓えをしのぐためのもので、相変わらず死の危険が私たちに付きまとっていました。
11月に入ってから、急に冷え込み始めました。日中の時間も次第に短くなってきました。ソ連軍がしょっちゅう家に押し入ってきて、女性を連れて行くという噂を耳にしました。ある人などは、ソ連軍に連れて行かれないように顔を黒く塗り、男か女か分らなくしました。