≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(30)「『お馬鹿さん』と呼ばれ…」
ある日、王潔茹がそっと私に教えてくれました。西院に靴の修繕職人がいて、その家に日本女性がいるというのです。そこで、私は母と二人の弟の消息を何か聞き出せるのではないかと思って、その家に行きました。靴職人はとても太った人で、私は彼が以前から靴屋をやっていて、それまで妻をもらったことがないというのを知っていました。
その日、彼らはちょうど夕食を食べているところでした。部屋は暗くて、食卓の上に暗い明かりが一つあるだけでした。その靴職人はオンドルに座り、両側に4人の子供が座っていました。日本人の女性はオンドルの下で忙しくしていました。
彼女は私を見ると、私が飯塚家の子供であることが分かり、驚いて、「どうしてこんなところにいるの?」と聞きました。私は、この問いに答える余裕はなく、急いで母の消息を聞きました。すると、母は死んだと噂に聞いたというのです。さらに二人の弟のことも聞きましたが、弟のことはもっと知りませんでした。
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私たちのこの長屋には、西棟の北の間にもう一世帯住んでいました。独身の中年男性で、私は「党智」おじさんと叫んでいました。彼は、趙源家の親戚で、関内の実家から出て来てまだ間もないとのことでした。
私と弟が沙蘭鎮に来てからはや数カ月が過ぎ、私たちは中国語が話せるようになりました。ある日、我が家に二人の軍服を着た若い男の人が、何やら入った二つの麻袋を持ってやってきました。中には、凍った雉やら野ジカやら食糧などが入っていました。
私は、もしかしたら養父は私を気に入ってくれないかもしれないと、心中、さらに不安になりました。
どうであれ、養母が不在であった数日は、私はとても楽しくとても自由で、私と弟の趙全有は中庭で、街で見たヤンガ隊の真似をして、自分たちでも踊ってみました。
養父が去ってから ほどなくして養父の足はよくなり、家を離れることになりました。私は養父に家にいてほしいと思いました。
ある日、王喜杉が外の間に出て来て、使用済みの器具を洗っていました。彼が洗っている小さな柄杓にはまだ茶色い水が残っており、それを注射器に吸い込むと、ヘラヘラと笑いながら、オンドルの縁に腰掛けていた私をめがけて飛ばしました。
そんなとき、私はよく薄暗い自分の部屋で考えました。養母が私にこんなにも酷い仕打ちをするのなら、いっそのこと、ここを離れた方がいいのではないかしら?しかし、いったいどこへ行けばいいのか、誰を頼ればいいのか?親戚はいないし、友だちもいない。
二度目の引っ越し ほどなくして、何が原因だったのか、養母が大家さんの親戚と喧嘩をしました。養母は、初めはただ口やかましく罵っているだけでしたが、後に手を出しました。
私が沙蘭鎮の劉家に連れてこられてからほんの二年間で、新富村で二度引越しし、長安村でもまた二度引っ越しました。