≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(33)「近所の子供たちと過ごした楽しい日々」

どうであれ、養母が不在であった数日は、私はとても楽しくとても自由で、私と弟の趙全有は中庭で、街で見たヤンガ隊の真似をして、自分たちでも踊ってみました。弟は扇子にみたてた小さな木板を持って、腰にはきれいな帯に見立てた腰ひもを結んでいました。私たち二人はヤンガ踊りを見るのが初めてだったので、とても新鮮で面白く感じました。

 私たち二人は、中庭で夢中で踊り、大人たちが口ずさんでいた歌をまねて、「ヤンガ~ヤンガ~」と歌っていました。しばらくすると、隣近所の子供たちも出てきて、周りで私たち二人が踊るのを見ていました。しかし、子供たちは皆恥ずかしがり屋で、一緒に踊ろうと手招きしても、首を横に振って、真似て踊ろうとはしませんでした。

 このとき趙おばさんが出てきて、私と弟が踊っているのをみると、私たち二人は物覚えがよく一度見ただけでヤンガを覚えたと褒めてくれました。趙おばさんは、さらに長屋の趙おじさん、王おじさん、党智おじさんも呼んで、皆が見に来ました。それで、私と弟はさらに熱を入れて踊りました。

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私は、もしかしたら養父は私を気に入ってくれないかもしれないと、心中、さらに不安になりました。
養父が去ってから ほどなくして養父の足はよくなり、家を離れることになりました。私は養父に家にいてほしいと思いました。
ある日、王喜杉が外の間に出て来て、使用済みの器具を洗っていました。彼が洗っている小さな柄杓にはまだ茶色い水が残っており、それを注射器に吸い込むと、ヘラヘラと笑いながら、オンドルの縁に腰掛けていた私をめがけて飛ばしました。
そんなとき、私はよく薄暗い自分の部屋で考えました。養母が私にこんなにも酷い仕打ちをするのなら、いっそのこと、ここを離れた方がいいのではないかしら?しかし、いったいどこへ行けばいいのか、誰を頼ればいいのか?親戚はいないし、友だちもいない。
二度目の引っ越し ほどなくして、何が原因だったのか、養母が大家さんの親戚と喧嘩をしました。養母は、初めはただ口やかましく罵っているだけでしたが、後に手を出しました。
私が沙蘭鎮の劉家に連れてこられてからほんの二年間で、新富村で二度引越しし、長安村でもまた二度引っ越しました。 
私の家は王喜蘭の屋敷の西の棟にありました。棟と棟は繋がっていましたが、それぞれに仕切られた庭がありました。
当然、そのような恐ろしい経験をした後、私は冬の日に井戸に水汲みに行くのが怖くなりました。
ところが、そんなとき、私が養母に最も嫌悪を感じ、受け入れがたかったことは、彼女が私によその家に行って「物の無心」をするよう言いつけたことでした。