≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(34)「引っ越し」
養父が去ってから
ほどなくして養父の足はよくなり、家を離れることになりました。私は養父に家にいてほしいと思いました。なぜなら、養父がいなくなると、かばってくれる人がいないので、養母がまたほしいままに私を叩くのではないかと恐れたからです。しかし、養父は仕事をしてお金を稼いで家族を養わなくてはいけないと言いました。
養父は、少ししたら学校へ通わせてくれると慰めてくれました。私は学校へ行けると聞いて、とても嬉しくなりました。しかし、養母がまたそうはさせてくれないだろうと心配になりました。私の養父はあまりにも気だてが良すぎて、養母の反対を押し切ってこのことを決めることはできないだろうと、直感的に感じました。いわんや養父はまた家を離れるのです。
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どうであれ、養母が不在であった数日は、私はとても楽しくとても自由で、私と弟の趙全有は中庭で、街で見たヤンガ隊の真似をして、自分たちでも踊ってみました。
ある日、王喜杉が外の間に出て来て、使用済みの器具を洗っていました。彼が洗っている小さな柄杓にはまだ茶色い水が残っており、それを注射器に吸い込むと、ヘラヘラと笑いながら、オンドルの縁に腰掛けていた私をめがけて飛ばしました。
そんなとき、私はよく薄暗い自分の部屋で考えました。養母が私にこんなにも酷い仕打ちをするのなら、いっそのこと、ここを離れた方がいいのではないかしら?しかし、いったいどこへ行けばいいのか、誰を頼ればいいのか?親戚はいないし、友だちもいない。
二度目の引っ越し ほどなくして、何が原因だったのか、養母が大家さんの親戚と喧嘩をしました。養母は、初めはただ口やかましく罵っているだけでしたが、後に手を出しました。
私が沙蘭鎮の劉家に連れてこられてからほんの二年間で、新富村で二度引越しし、長安村でもまた二度引っ越しました。
私の家は王喜蘭の屋敷の西の棟にありました。棟と棟は繋がっていましたが、それぞれに仕切られた庭がありました。
当然、そのような恐ろしい経験をした後、私は冬の日に井戸に水汲みに行くのが怖くなりました。
ところが、そんなとき、私が養母に最も嫌悪を感じ、受け入れがたかったことは、彼女が私によその家に行って「物の無心」をするよう言いつけたことでした。
私の家が河北の長安村に移ってからほどなく、土地改革が始まりました。隣の王慶図兄さんは、土地改革の民兵隊長で、毎日のように銃を背負っては行き来していました。王喜蘭のおじさんは、毎晩こっそりと養母を尋ねてきました。