≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(35)「頭に大怪我」

ある日、王喜杉が外の間に出て来て、使用済みの器具を洗っていました。彼が洗っている小さな柄杓にはまだ茶色い水が残っており、それを注射器に吸い込むと、ヘラヘラと笑いながら、オンドルの縁に腰掛けていた私をめがけて飛ばしました。おかげで私は、顔も体もモルヒネの混じった汚い水だらけになりました。彼は私をからかいながら、「おい、お馬鹿さん、お前もちょっと麻薬漬けにしてやろうか」と言いました。

 私はそのとき、とても大きな侮辱を受けたように、悲しみと憤慨を覚えました。人から「日本の犬っころ」と言われるよりもっと哀しくなりました。しかし、養母は私の味方をしてくれるどころか、その災難を見て喜びながら下品なことを言っています。

 それ以来、私は次第に、養母は全く母親らしくなく、私のことをただ単に、気ままに使える「子供の召使」としか考えていないということがわかりました。

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養父が去ってから ほどなくして養父の足はよくなり、家を離れることになりました。私は養父に家にいてほしいと思いました。
そんなとき、私はよく薄暗い自分の部屋で考えました。養母が私にこんなにも酷い仕打ちをするのなら、いっそのこと、ここを離れた方がいいのではないかしら?しかし、いったいどこへ行けばいいのか、誰を頼ればいいのか?親戚はいないし、友だちもいない。
二度目の引っ越し ほどなくして、何が原因だったのか、養母が大家さんの親戚と喧嘩をしました。養母は、初めはただ口やかましく罵っているだけでしたが、後に手を出しました。
私が沙蘭鎮の劉家に連れてこられてからほんの二年間で、新富村で二度引越しし、長安村でもまた二度引っ越しました。 
私の家は王喜蘭の屋敷の西の棟にありました。棟と棟は繋がっていましたが、それぞれに仕切られた庭がありました。
当然、そのような恐ろしい経験をした後、私は冬の日に井戸に水汲みに行くのが怖くなりました。
ところが、そんなとき、私が養母に最も嫌悪を感じ、受け入れがたかったことは、彼女が私によその家に行って「物の無心」をするよう言いつけたことでした。
私の家が河北の長安村に移ってからほどなく、土地改革が始まりました。隣の王慶図兄さんは、土地改革の民兵隊長で、毎日のように銃を背負っては行き来していました。王喜蘭のおじさんは、毎晩こっそりと養母を尋ねてきました。
あくる日の早朝、養母は食料を背負い、弟の煥国を連れて出て行きました。私は、養母がなぜそんなに早く出て行ったのかわかりませんでした。