≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(39)「あわや井戸の中へ」

私の家は王喜蘭の屋敷の西の棟にありました。棟と棟は繋がっていましたが、それぞれに仕切られた庭がありました。私の家は、西の端だったので、隣には家がなく、したがって中庭は大きなものでした。

 ここに引っ越してから、すぐに冬がやってきました。私は毎日のように、我が家からずいぶん離れた西のほとりにある井戸へ水を汲みに行かなければなりませんでした。一度に汲みすぎると運べないので、少しずつ、一日に何度も往復しなければなりませんでした。

 私が最も苦痛に感じたのは、タマゴ石溝開拓団の洋式の井戸と違って、ここの井戸には水を汲み上げるための設備もなければ、桶を引揚げるロープもなかったことです。それなのに、井戸は深く、井戸の口は円形で、その口は開けっぴろげになっており、そこには蓋もありませんでした。

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私が沙蘭鎮の劉家に連れてこられてからほんの二年間で、新富村で二度引越しし、長安村でもまた二度引っ越しました。 
当然、そのような恐ろしい経験をした後、私は冬の日に井戸に水汲みに行くのが怖くなりました。
ところが、そんなとき、私が養母に最も嫌悪を感じ、受け入れがたかったことは、彼女が私によその家に行って「物の無心」をするよう言いつけたことでした。
私の家が河北の長安村に移ってからほどなく、土地改革が始まりました。隣の王慶図兄さんは、土地改革の民兵隊長で、毎日のように銃を背負っては行き来していました。王喜蘭のおじさんは、毎晩こっそりと養母を尋ねてきました。
あくる日の早朝、養母は食料を背負い、弟の煥国を連れて出て行きました。私は、養母がなぜそんなに早く出て行ったのかわかりませんでした。
外の雪はますます激しくなってきました。私はそのとき家で一人、本当に不安でした。普段、養母に折檻されたときは、養母のことを本当に恨みましたが、今日は彼女が可愛そうになり、吊るし上げられるのではないかと心配でした。
養母に乞食を強要される ほどなく、私の家は「富農」というレッテルを貼られ、家で値打ちのあるものはすべて「没収」されました。養父もまた自由を失い、仕事と収入がなくなりました。
私たちは北卡子門を出て、一路北に向かい、閻家村に着きました。空はいくらか明けていました。養母は私の手を引いて村の中に入って行きました。
養母は後についてくると、私の手からトウモロコシパンを二つとも取り上げました。