≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(41)「養母の生い立ち」
ところが、そんなとき、私が養母に最も嫌悪を感じ、受け入れがたかったことは、彼女が私によその家に行って「物の無心」をするよう言いつけたことでした。
あるとき、養母は私に隣の王喜蘭の家に行かせ、団子を無心させようとしましたが、私は行きたくなくて、すぐには動きませんでした。すると、養母は私の膝の辺りを蹴り上げました。私は立てなくなり、地べたに膝をつきました。養母は私の襟首を掴み、私を立たせるとすぐに行かせたのでした。
私は養母にせっつかれて、いやいやながら行きました。王喜蘭の家に着くと、ちょうど一家が食卓を囲んで団欒のひと時でした。私は一家団欒で食事をしている中へ行って食べ物を無心するのは恥ずかしかったので、外で王おばさんが出てくるのを待ってから事情を話そうと思いました。
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当然、そのような恐ろしい経験をした後、私は冬の日に井戸に水汲みに行くのが怖くなりました。
私の家が河北の長安村に移ってからほどなく、土地改革が始まりました。隣の王慶図兄さんは、土地改革の民兵隊長で、毎日のように銃を背負っては行き来していました。王喜蘭のおじさんは、毎晩こっそりと養母を尋ねてきました。
あくる日の早朝、養母は食料を背負い、弟の煥国を連れて出て行きました。私は、養母がなぜそんなに早く出て行ったのかわかりませんでした。
外の雪はますます激しくなってきました。私はそのとき家で一人、本当に不安でした。普段、養母に折檻されたときは、養母のことを本当に恨みましたが、今日は彼女が可愛そうになり、吊るし上げられるのではないかと心配でした。
養母に乞食を強要される ほどなく、私の家は「富農」というレッテルを貼られ、家で値打ちのあるものはすべて「没収」されました。養父もまた自由を失い、仕事と収入がなくなりました。
私たちは北卡子門を出て、一路北に向かい、閻家村に着きました。空はいくらか明けていました。養母は私の手を引いて村の中に入って行きました。
養母は後についてくると、私の手からトウモロコシパンを二つとも取り上げました。
身売りの話 養母は私が変わったことに気がつきました。以前のように思い通りにはいかなくなったのです。
その年の冬、新年が過ぎてまだ間もないころ、養母は買い手を見つけ、私を閻家屯の趙という家に「トンヤンシー」として高く売ったのでした。