≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(45)「乞食を強要されて」

養母に乞食を強要される

 ほどなく、私の家は「富農」というレッテルを貼られ、家で値打ちのあるものはすべて「没収」されました。養父もまた自由を失い、仕事と収入がなくなりました。養母は小さいときからわがままに育ってきたので、縫い物もできないし、生活をきりつめてやりくりすることもできませんでした。米があるときは、毎日のように私に米のご飯を作らせ、なくなると、お粥をすすることさえできませんでした。養母は人の忠告など聞き入れられず、ましてや私の言うことなど聞く耳をもちませんでした。

 その翌年の春、端境期に、私の家は本当に苦しくなりました。私はやむなく、タンポポや小さい根菜を掘り起こし、それを持ち帰ってトウモロコシの粉と和えて食べました。

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外の雪はますます激しくなってきました。私はそのとき家で一人、本当に不安でした。普段、養母に折檻されたときは、養母のことを本当に恨みましたが、今日は彼女が可愛そうになり、吊るし上げられるのではないかと心配でした。
私たちは北卡子門を出て、一路北に向かい、閻家村に着きました。空はいくらか明けていました。養母は私の手を引いて村の中に入って行きました。
養母は後についてくると、私の手からトウモロコシパンを二つとも取り上げました。
身売りの話 養母は私が変わったことに気がつきました。以前のように思い通りにはいかなくなったのです。
その年の冬、新年が過ぎてまだ間もないころ、養母は買い手を見つけ、私を閻家屯の趙という家に「トンヤンシー」として高く売ったのでした。
その日の晩、養母と養父は蘭家後村の趙家の事を話し始めました。私にもかすかに聞こえてきたのですが、趙家は蘭家後村にあり、少なからぬ土地を分け与えられましたが、労働力が足りないので、養父に手伝いに来てほしいというのだそうです。
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