≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(48)「慈悲深い養父と孫おじさん」
身売りの話
養母は私が変わったことに気がつきました。以前のように思い通りにはいかなくなったのです。そこで、私を邪魔者扱いするようになり、養父にも私にも内緒で、私をトンヤンシー(※)として他家に身売りに出そうとしたのです。彼女は一旦このような悪智慧が働きだすと、すぐに行動に移すタイプで、しかも目的を達するまであきらめませんでした。
養母はまた娘を産みました。名前は、劉淑雲です。おしめを洗ったり、子供をあやしたりと、私の仕事が増えました。しかし、養母がわけもなく私を折檻したりさえしなければ、私は文句も言わずもくもくと働きました。
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養母は後についてくると、私の手からトウモロコシパンを二つとも取り上げました。
その年の冬、新年が過ぎてまだ間もないころ、養母は買い手を見つけ、私を閻家屯の趙という家に「トンヤンシー」として高く売ったのでした。
その日の晩、養母と養父は蘭家後村の趙家の事を話し始めました。私にもかすかに聞こえてきたのですが、趙家は蘭家後村にあり、少なからぬ土地を分け与えられましたが、労働力が足りないので、養父に手伝いに来てほしいというのだそうです。
私は登校するために、自分で急いで布靴を一足作りました。西棟に住む李秀珍のお母さんに教えてもらったのです。
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