≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(52)

【大紀元日本11月10日】

 入学後の平静な日々

 入学した初日、私は李秀珍や家の西に住んでいた王秀琴と一緒に学校に行きました。彼女ら二人は三年生の学級でした。李秀珍と王秀琴は、私のために先生を捜し出してくれました。彼は、黄啓倫先生といいました。彼は指導主事で、私の第一印象は、背が高く目が大きくて特別元気な人でした。

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私は登校するために、自分で急いで布靴を一足作りました。西棟に住む李秀珍のお母さんに教えてもらったのです。
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私はとっさに、どうしたらいいか分かりませんでした。その場を離れようとしましたが、足が動きません。たとえ本当に逃げ出しても、彼らはすぐに追いつき、私を捕まえることでしょう。