≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(55)

【大紀元日本12月21日】私たち二人が旅館に戻ると、大人の人たちが車座になって何やら相談をしていました。

 私たちは一人として知り合いもおらず、その大人たちも私たち子どもにはかまっていられないようでした。私は辺りを見回しましたが、趙全有たちが見当たりません。弟たちも私たちと同じく、大通りへ出かけたのかもしれません。私は弟の心を推し量るすべがありませんでしたが、弟もまた当時一緒に歩いた通りを歩きながら、母のことを思い出しているのかもしれません。

 その晩、私たちはその旅館に泊まりました。翌日、会合が開かれましたが、私たちは始終何を話しているのか分かりませんでした。私たち子どもは、日本語をすっかり忘れてしまい、聞きとれなかったのです。結局、わけが分からないままに二日間が過ぎました。

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私はとっさに、どうしたらいいか分かりませんでした。その場を離れようとしましたが、足が動きません。たとえ本当に逃げ出しても、彼らはすぐに追いつき、私を捕まえることでしょう。
私はなぜこのように冷静なのか分かりませんでした。養母はまだ私が逃げ出そうとしているのに気づいていないようでした。
私は養母が追いかけて来るんじゃないかと心配で、足を緩めることはせず、できるだけ速く走ろうとするのですが、走ればまた転んでしまい、全身泥だらけになりました。
このとき、私は急に弟の趙全有の家を思い出しました。私は養父に、河南の元々私たちが住んでいた趙源おじいさんの家へ行ったらどうだろうかと聞いてみました。