≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(62)
私は養母が追いかけて来るんじゃないかと心配で、足を緩めることはせず、できるだけ速く走ろうとするのですが、走ればまた転んでしまい、全身泥だらけになりました。そのとき、私は誰かが「淑琴、淑琴」と呼んでいるのをはっきりと聞くことができました。耳を傍立てて聞いてみると、それは養父が私を呼んでいる声でした。
私は立ち止まりましたが、人影は見えません。そのとき一筋の雷光が煌き、養父が別の道から戻ってきているのが見えました。私はすぐに自分が間違った道に入っているのが分かりました。それは沙蘭に行く道ではなかったのです。なぜだかわかりませんが、心の中に急に何か鬱積したものを覚え、辛さで泣き出しました。
養父は、私を追って出てきたのですが、姿が見えないので、闇夜で道を間違ってしまったのではないかと推測して、引き返してきたのでした。養父は、私の手を引き、道の脇の草の上を歩かせました。養父は背が高く、また私を引っ張る力も強かったので、私はもう転ぶことはありませんでした。私たちは、あっという間に閻家屯まで行くことができました。
関連記事
私はなぜこのように冷静なのか分かりませんでした。養母はまだ私が逃げ出そうとしているのに気づいていないようでした。
このとき、私は急に弟の趙全有の家を思い出しました。私は養父に、河南の元々私たちが住んでいた趙源おじいさんの家へ行ったらどうだろうかと聞いてみました。
独りで身の拠り所を探す 養父は行ってしまい、私は一人残され、自分で沙蘭屯に入らなければなりませんでした。
風は次第に弱くなり、大雨もまた小ぶりになって、暴風雨が去ろうとしていました。夜が明けると、私は学校を離れ、川の南にある趙おばさんの家へ向かいました。
趙おばさんは、当時たしかに私を娘にしたいと考えており、何度も趙に改姓するよう言いました。ただ、私は趙になんか改姓したくありませんでした。
大きな劫難がやっと過ぎ去り、私はまた絶望の中で再び謝家に戻りました。心を落ち着け身を寄せることのできるところが見つかり、流浪の日々で疲れた心
合格通知書が区政府に届き、区の教育担当助手が鐘家に報告に来てくれました。私は沙蘭地区の受験生の中でトップ合格でした。
第五章 中学の時、孫おじさんと唯一の弟を亡くす「出自が道徳規準に勝る」という困惑に初めて直面する 1954年、寧安一中がちょうど建設されました。
当時、私の前の席に宮崇霊という女の子が座っていました。彼女は勉強が遅れており、特に数学が良くありませんでした。