≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(64)

独りで身の拠り所を探す

 養父は行ってしまい、私は一人残され、自分で沙蘭屯に入らなければなりませんでした。私はゆっくり歩きながら、この家に来たときのことをつらつらと考えていました。養母は、王家屯にいた生母の元から私を引き取り、養女としました。その後今日まで、ずっとやむことのない嵐のような虐待と折檻を受け、生きるか死ぬかの試練の連続で、ついにはあわや「トンヤンシー」として趙家に売られるところでした。

 思えば本当に不可思議なことですが、私はなぜあのような性悪な養母に出会うことになったのでしょうか。そんなことを考えているうちに、弟のことを思い出しました。弟は幸せ者で、彼の養母は彼をたいへんかわいがり、手をあげることなどありませんでした。

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このとき、私は急に弟の趙全有の家を思い出しました。私は養父に、河南の元々私たちが住んでいた趙源おじいさんの家へ行ったらどうだろうかと聞いてみました。
風は次第に弱くなり、大雨もまた小ぶりになって、暴風雨が去ろうとしていました。夜が明けると、私は学校を離れ、川の南にある趙おばさんの家へ向かいました。
趙おばさんは、当時たしかに私を娘にしたいと考えており、何度も趙に改姓するよう言いました。ただ、私は趙になんか改姓したくありませんでした。
大きな劫難がやっと過ぎ去り、私はまた絶望の中で再び謝家に戻りました。心を落ち着け身を寄せることのできるところが見つかり、流浪の日々で疲れた心
合格通知書が区政府に届き、区の教育担当助手が鐘家に報告に来てくれました。私は沙蘭地区の受験生の中でトップ合格でした。
第五章 中学の時、孫おじさんと唯一の弟を亡くす「出自が道徳規準に勝る」という困惑に初めて直面する 1954年、寧安一中がちょうど建設されました。
当時、私の前の席に宮崇霊という女の子が座っていました。彼女は勉強が遅れており、特に数学が良くありませんでした。
中学に入って間もなくして、私もこの「共産主義青年団」に入りたくなりましたが、自分が日本人の子供で、劉家は共産党によって「富農」とみなされ、養父もまた日本統治下の満州政府で警察官をやっていたこともあって、いろいろと思い悩みました。
この度の先生の話は、出身により私に思想的な問題があるという批判教育で、中学に来てから初めて聞くものでした。私は本当にその当時、その本当の意味が何なのかを理解することができませんでした。