≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(65)
風は次第に弱くなり、大雨もまた小ぶりになって、暴風雨が去ろうとしていました。夜が明けると、私は学校を離れ、川の南にある趙おばさんの家へ向かいました。趙おばさんの住む長屋の外門は半開きになっており、中から人が出てきた折に、私は中に入り、趙おばさんの家のドアを叩きました。
趙おばさんはすでに目を覚ましていて、「誰?」と聞きました。私は「劉淑琴です」と応えました。しかし、趙おばさんは、私のこの名前がすぐにはわからなかったようです。ただ、学校では先生たちが私の名前をあげて表彰したり、全校あげての詩の朗読会でも賞をもらったことがあるので、学校の学生たちは皆、私のこの名前を知っていました。それゆえ、弟の趙全有は、私が誰なのかすぐにわかり、何も言わず、布団の中から出てくると、ドアを開けてくれました。
おばさんはまだ布団の中でした。オンドルに温まりながら、キセルを口に咥え、こちらの方を見ていました。びしょ濡れになっている私を見て、こう言いました。「あ、このお馬鹿さん、どこから来たの?どうしてこんなに濡れているの?早く服を換えてオンドルに上がりなさい」。しかし、私には着替えがありませんでした。弟が自分の服を渡してよこしました。着てみると少し小さかったのですが、暖かくなりました。
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