≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(70)

当時、私の前の席に宮崇霊という女の子が座っていました。彼女は勉強が遅れており、特に数学が良くありませんでした。時に私に質問することがあるのですが、私はいつも根気よく教えてあげました。

 勉強の面でお互いに助け合ったので、私たち二人はとても仲良くなりました。私はその他の同級生とも仲良くつきあっていましたが、宮崇霊とは特に親密になりました。彼女はどんなことでも私に話してくれました。私も彼女をだんだんと信用するようになり、小さい頃からの経歴を話して聞かせました。彼女は私を日本人の子供だということで蔑視したりなどしなかっただけでなく、私に同情してくれました。

 宮崇霊は温厚な良い女の子でした。小柄で、まん丸の顔をしており、とても可愛く見えました。彼女は、寧安の街中に住んでしました。兄弟の中では一番年長で、下に妹が一人と弟が三人いました。だから、彼女はとても物分りがよく、また他人に思いやりもありました。

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