≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(71)
に入って間もなくして、私もこの「共産主義青年団」に入りたくなりましたが、自分が日本人の子供で、劉家は共産党によって「富農」とみなされ、養父もまた日本統治下の満州政府で警察官をやっていたこともあって、いろいろと思い悩みました。しかし、組織委員の顔喜貴も日本人の子供だということを聞いて、私も大胆に熱情溢れる申請書を書きました。
当時の私は、共青団に加入できるということは思想的に進歩していることの表れであり、そうなれば人に蔑視されることもなく、社会からも認めてもらえると考えていました。そのため、入団にとても憧れており、本人の普段の行いが社会の道徳規準に合っていれば何ら問題はないものと思っていました。しかし、これを機に、自分の出自がそういったことに優先することを思い知らされることになるのでした。当初はこれに非常に困惑することになるのですが、申請する前には予想だにしませんでした。
まだ幼かった私は、申請書に、「党」と中国政府が私をトンヤンシーの境遇から救ってくれたことに対し、感謝の言葉を綴りました。また、「党」と国家の期待に背かないよう、学業に励み、将来は必ず中華民族の繁栄のために貢献する…と決意を表したのでした。
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私が入学して間もない秋、東京の町に住む孫おじさんが様子を見に来てくれました。冬を越す綿入りの服、綿入れのズボンを買いに連れて行ってくれ、さらには綿入りの靴まで買ってくれたのでした。
二年目の夏休みになると、寮に残って帰省しない同級生が増えてきました。私と同学年の一年一組の劉桂琴がいました。そして私たちより一学年下の曹煥玲と周静茹もいました。彼女たちは、妹のような存在でした。
中学で弟と再開 この年、私の弟である趙全有が第二中学に合格しました。第二中学の校舎は大きな川の辺にあり、私たちの第一中の学生寮の近くです。
私と弟は、水入らずで話すことはありませんでしたが、この目で弟を見ることができるだけで満足でした。
孫おじさんの死 再び「父親」を失う 私がちょうど中学三年に上がった冬のある日、孫おじさんが病気で牡丹江の療養所に入院しました。
弟の悲惨な死 孫おじさんから亡くなったてからというもの、私は総じて喪失感に似たものにとりつかれ、精神が不安定になり、何をしても手につきませんでした。
沙蘭はあたり一面真っ暗でした。すでに深夜になっており、明かりを灯している家はほとんどありませんでした。峰をおりる時、小走りに歩を進め、村に入ってからは真っ直ぐに趙全有の家を目指しました。
趙おばさんはひとしきり泣くと、泣き止みました。そして、こう話しました。「全有は帰ってきた次の日に発病し、高熱を出したんだよ。病院の先生は、ペニシリンを数回打てば良くなると言っていたけど、私はあんなものは信じない。