≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(73)

私が入学して間もない秋、東京の町に住む孫おじさんが様子を見に来てくれました。冬を越す綿入りの服、綿入れのズボンを買いに連れて行ってくれ、さらには綿入りの靴まで買ってくれたのでした。これは私にとって初めて身に付ける綿入りの上着と柔らかくて暖かい綿入り靴でした。私が中学に入った最初の年は、学費と小遣いはすべて孫おじさんが用立ててくれました。

 孫おじさんは私のため、東京の町の大豆油加工工場に異動して、食堂でコックをするようになりました。寧安まで私に会いに来るには、沙蘭より便利だったのです。

 孫おじさんには身内がなく、私を本当の娘のように扱ってくれ、工場の人たちもみな、私を孫おじさんが養子にした日本人の娘だと思っていたようです。私も孫おじさんを家長としていました。休暇期間になると、東京の町へ孫おじさんに会いに行くのが常でした。養母の家を出てからは、孫おじさんが実際の父親と同じようなものでした。

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私が入学して間もない秋、東京の町に住む孫おじさんが様子を見に来てくれました。冬を越す綿入りの服、綿入れのズボンを買いに連れて行ってくれ、さらには綿入りの靴まで買ってくれたのでした。
中学で弟と再開 この年、私の弟である趙全有が第二中学に合格しました。第二中学の校舎は大きな川の辺にあり、私たちの第一中の学生寮の近くです。
私と弟は、水入らずで話すことはありませんでしたが、この目で弟を見ることができるだけで満足でした。
孫おじさんの死 再び「父親」を失う 私がちょうど中学三年に上がった冬のある日、孫おじさんが病気で牡丹江の療養所に入院しました。
弟の悲惨な死 孫おじさんから亡くなったてからというもの、私は総じて喪失感に似たものにとりつかれ、精神が不安定になり、何をしても手につきませんでした。
沙蘭はあたり一面真っ暗でした。すでに深夜になっており、明かりを灯している家はほとんどありませんでした。峰をおりる時、小走りに歩を進め、村に入ってからは真っ直ぐに趙全有の家を目指しました。
趙おばさんはひとしきり泣くと、泣き止みました。そして、こう話しました。「全有は帰ってきた次の日に発病し、高熱を出したんだよ。病院の先生は、ペニシリンを数回打てば良くなると言っていたけど、私はあんなものは信じない。
その時、私は溢れ出る涙を抑えることができず、弟に何を言えばいいかわかりませんでした。
帰って来る道中、張小禄おじさんが私に言いました。「全有は、養母に殺されたようなものだ。もし養母が金を惜しまずに、医者に診せて注射でもしてやっていたら、死ぬこともなかったろうに。