【党文化の解体】第5章(9)

【大紀元日本9月16日】

3.党の話を聴け、党について行け

宣伝の中で、中共は単に人々が「共産党がなければ新中国はなし」を信じさせ、「感謝」の気持ちを持たせるだけではなく、人々が党が最も親切な人と看做させ、「親情」に満ちると思わせるだけでもない。党は更に民衆を臣服する道具に変え、人々が党の言いなりに行動し、ついて行き、党の政治的目的に服務させる。

1)いつまでも存在する二面的宣伝手法

民衆が「党の話を聴き、党について行く」ようにする目的を達成するため、中共は紅顔と白顔(※)を併用する手法を取る。政治運動中には白顔を演じ、平常時には紅顔を演じる。所謂白顔を演じるというのは、独立に思考する人に対して批判・打撃を行う。その後反面教材として民衆を「教育」する。これに恐怖に覚える民衆は否が応でもついて行く。中共の毎回の政治運動、整風運動は残酷な政治粛清であり、党に対して不忠心な人を粛清し、同時に人々の心の中へ不断と恐怖感を与える。党の話を聞かなければ、党について行かなければ絶対良い結末がないことを人々の心の中に刻みつける。中共の定義の中で、党の話を聴き、党と一致を保持する人のみ「人民」となり、党が団結する大多数となる。そうでなければ、批判される「立遅れ分子」となり、さらに「一握り分子」として打撃を受ける。中共が20年来批判してきた「資産階級自由化」は、やはり人々が独立した思考と自由への選択を容認できないからである。何故ならば、人々がそうすると、「党の話を聞かず、党について行かない」人が必ず出てくるからである。

これに対し、中共はまた紅顔を演じる。「真正面からの宣伝」をやる。この種の「党の話を聴け、党について行け」を柱とする宣伝は至るところにあり、宣伝する内容は党首への褒めそやし、人を神に祭り上げる運動をやったり、中共の指導的地位、政策方針と所謂「業績」を褒めそやしたり、「党性教育」、典型的模範を樹立したり、モデル師範をしたりすることが含まれる。

党首を褒めそやすことは人を神に祭り上げるためであり、根本的な目的は中共の統制、を維持し、党の話を聞かせ、党について行かせるためである。毛は「偉大なる指導者、偉大なる導師、偉大なる統帥者、偉大なる舵取り者」、「万言よりも一言、一言一言は真理である」と褒めそやされ、人々は当然その話を聞かざるを得なくなる。その時代の人々は必ず手にするものは「紅宝書(赤冊子・毛沢東語録)」であり、みんな「毛主席」の話しを聴き、「毛主席」の信頼される兵士になる。毛が大きな過ちを犯し、20世紀50年代末から60年代初期ごろまでのあの人類歴史上最大の飢荒をもたらしたときでも、1962年の中共の総括大会上において「困難のときであるからこそ、我々はもっと党に依拠し、党の指導を信じ、中央の指導を信じ、毛主席の指導を信じるべきである。そうすれば、我々は容易に困難を克服できる」と大言を吐いて恥じない。毛の後は「英明指導者華(華国峰)主席」それから「総設計師」_deng_小平、江沢民でさえ「前人の事業を引き受け、将来の発展に道を開く人」となる。「三つの代表」論が出て後、中央宣伝部長は、「必ず大いに力を入れ、「三つの代表」論という重要思想を深く人心に刻みつけ、広大なる幹部・民衆の行動指針とさせ、我々の各項の工作の根本的指針とさせるべきである」と話す。これを受け、某農村某所にある壁の上には、驚くべき宣伝スローガンが出現:「「三つの代表」の思想を持って我々の屠殺業を指導せよ」。

人民の権利、私が全部を代表する(三つの代表論)(イラスト・大紀元)

「党の話を聴け、党について行け」は「法律」と言う形で固定される。憲法は本来ならば一国の基本法である。しかし中共は「共産党の指導の下で」と言う表現を憲法の中に書き込んだ。人々が「政治に参加し、政治を議論する」ときには、党の指導を揺るがせにしないと言うボーダーラインが引かれた。

同時に、中共の毎回の重大な会議では、すべて「団結された大会」、「勝利の大会」と宣伝される。中共毎回の会議の指針は、「深く理解」、「真剣に学ぶ」、「徹底的に貫徹実施」、であり、それにより更に「党の話しを聴き、党について行く」ようにするのである。更に、これと同時に、中共は定期的に所謂「党性」教育を遂行する。党・団員に共産党の各種の文献著作を強制的に勉強させ、思想報告を書かせ、人々の思想が常に党と一致させようとする。「思想を是正させ、断固に党の指導に従う」は思想報告の典型文句となる。

党性に服従せよ(イラスト・大紀元)

人を神に祭り上げるほか、中共は不断と各種の典型的模範を樹立し、「党の話しを聴け、党について行け」ば、必ず革命の勝利、民衆の生活の改善等ができるようになることを宣伝する。中共の見せ掛けをよくし、人々の信任を騙し取る。雷峰のような典型的人物は、彼の行動を宣伝するほか、最後に彼の「断固に党の話を聴き、一生涯党について行く」と言う主題を強調する。党が農業を大々的にやると呼びかけたら、雷峰は自ら農民になると申し入れ、党が工業建設を強めると呼びかけたら、彼は家を離れ工場労働者になると申し入れ、党が青年に兵隊に入隊しようと呼びかけたら、彼はまた部隊へ入り兵隊になると申し入れる。林彪は彼への激励の言葉は次のように書かれた。「毛主席の著作を読み、毛主席の話しを聴き、毛主席の指示通りに動き、毛主席のための良き兵士になる」。雷峰を宣伝し、雷峰に学ばせるには、当然同じように人々が彼のように党の話を聴き、党について行くことが要求される。同様に、中共が焦裕禄、孔繁林を宣伝するにも、「党の話を聴き、党について行く」と言う「中心的思想」を強調することは忘れない。病状がますます酷くなった事実を知った焦裕禄が妻へ言い聞かせた言葉とは、「末永く党の話を聴き、毛主席の著作を生かし、良き仕事をこなし、子供を赤き革命の継承者に育てあげよう」であった。

中共の各種文芸形式も明に暗に人々に「党の話を聴き、党について行き」の主題を宣伝する。映画「閃閃的紅星」(「輝かしい紅い星」)の中で、「革命の重任を背負い、党の教育指導を心に刻み、革命は代々に湧き上がり、前(の人は)赴き、後ろ(の人は)続き、党について行き」。映画「地道戦」の中で、「敵人が横暴を働くにしても、(毛)主席の話を心に刻み」、模範劇「沙家濱」の中で、英雄人物郭建光は次のような台詞があった。「毛主席中央指導部が(我々に)方向を示し、我々が水郷で奮戦することを鼓舞する」。模範劇「海港」の中に、「党の話を断固に聴き、頑強に前進し、党の話を聴き頑強に前進する」というくだりがある。

「党の話を聴き、党について行き」と言う宣伝はすでに過去の祭りだと言う人がいるかもしれない。実はそうではない。人を神に祭り上げるにしても、政治学習にしても、党性教育、典型事例を樹立するなどは、皆今日の現実的生活の中で随所見られることである。「三つの代表」論から「八栄八恥」論まで、党員の入党式で赤旗の下で献身宣誓から軍隊官僚、延辺兵士、労働者、農民、学生、知識人の政治態度表明「党の指導を断固に支持する」、「党の命令に服従する」まで等等、「党の話を聴き、党について行き」のような台詞が満ち溢れている。インターネットで「堅持党的領導(党の指導を堅持する)」をキーワードで検索をかけると、なんと1千万以上の関連記事が表示される(「孔子」をキーワードで検索すると六百万超ぐらいの関連記事しか表示されない)、「永遠跟党走(永遠に党について行く)」をキーワードで検索すると、やはり三百万以上の関連記事が表示される。

中共が1989年六・四事件で一般民衆に銃を向けた後、「1989年春夏の時に起こったあの政治風波は、私をより明確に認識させた。すなわち党の話を聴くことを堅持し、党について行かなければ……」のよう表現は各種の宣伝の中に満ち溢れていた。その後人々が思想報告を書くときの模範文句となったほどだ。1999年中共は法輪功を迫害し始め、またもや「掲発・批判」、「百万人署名」等等の政治態度表明運動を繰り返した。法輪功について何にも分かっていない人々は中共によって宣伝の模範として作り上げられた:ある労働模範は「我々のような者は年も60を越え、仏も宗教も信じない、我々はただ党について行くだけだ」と話す。兵隊さんが家族に出した手紙では、「共産党の決定を固く擁護し、法輪功と徹底的に決裂する」……このような類は皆中共の一貫した政治宣伝手法である。

今になっても、「末永く党について行く」は、依然として中共の「主題教育」の内容であり、いわゆる読書や新聞を読むイベント、革命体裁の映画放映月、「傾聴紅色経典」など一系列のイベントを通して、大・中学生の「三つの代表」学習宣伝実践団活動を通して、テーマシンポジウムの開催を通して次の世代を毒害する。2006年中共建党八十五周年のとき、中央テレビはテーマを決め文芸宣伝演出――「貴方に永遠について行く」を行い、これを受け、地方各地、上は行政各機関、教育部門、下は農村の村まで物真似が始まり、似ているような文芸出演は後を絶えない。

より多くの人が中共を信じなくなった今日、中共は依然として一人善がりの思い込みで一方的に至るところで「党の指導的核心地位を堅持さえすれば党と人民の事業は順調に発展することができ、党の指導的核心的地位が弱体化すると、党と人民の事業は挫折してしまう」のようなスローガンを宣伝し、そのうえ、これは「中国革命と建設の歴史的証明」だと言い付ける。中共の「党の話を聴け、党について行け」と言う欲求は極端のほど病みつきなってしまった。

※中国の伝統演劇の中で、一般的に忠臣は紅色を顔に化粧し、奸臣は白色を顔に化粧する演劇上のルールがある。ここでは、表面上において、中共は善人と悪人の両方を演じることを比喩している。

(続く)