【ショート・エッセイ】家庭人としての小説家

【大紀元日本2月27日】『白い花が好きだ』と題されたエッセイ集が、その小説家にある。古本屋で見かけ、題名が気に入ったという、それだけの理由で購入したものが30年経った今も筆者の書架に並んでいる。

八甲田山死の彷徨』『芙蓉の人』など、新田次郎の「山岳小説」を好んで読んだ時期があった。ところがこの「山岳小説」という呼び方(呼ばれ方)について作者自身は、「では、平地のことを書いたら平地小説というのか」と言って、ひどく嫌っていたという。

新田次郎の小説の舞台は、確かに山である場合が多い。しかもそれは峻厳な気候をもつ冬山や、人を寄せ付けない雪の高峰であり、それを自身の気象学者としての知識と、富士山気象レーダー勤務の実務経験に基づいて描写するため、荒れ狂う吹雪の叫びまで聞こえてくるようなリアルで重厚感あふれる文体となるのである。

ただ、先ほどの山岳小説と呼ばれるのを嫌った作家の心中を察してみると、やはり新田次郎が描いたのはそこに身を置く人間の姿であって、厳しい自然環境、ときには極限状況の中で人間がどう生きるかを緻密に描写するところに、それを山岳小説と呼ばせたくない作者の意地があった。人が褒めたつもりで「山岳小説」と呼んでも、作者にしてみれば、きちんと読んでいない証拠、と見たのだろうと想像する。

専業作家になる前の新田次郎は、気象庁職員としての勤務を実直にこなしながら、流行作家として小説を書いていた。そのような二刀流がどうして可能だったか。答えは、作家自身の次のような勤勉さから窺える。

「このころは役所から帰って来て、食事をして、七時にニュースを聞いて、いざ二階への階段を登るとき、戦いだ、戦いだ、とよく云ったものだ。自分の気持ちを仕事に向けるために、自分自身にはげましの言葉を掛けていたのだが、中学生の娘がこの言葉の調子を覚えこんで、私が階段に足を掛けると、戦いだ、戦いだと私の口真似をするので、それ以後は、黙って登ることにした。七時から十一時までは原稿用紙に向かったままで階下に降りて来ることはなかった」(『小説に書けなかった自伝』新田次郎)

ものを書くことは苦しい。それはこの文章を書いている筆者もしばしば味わう苦味だが、新田次郎は通常の勤務を終えた平日の夜に、「戦いだ」という言葉で自身を奮い立たせながら職業作家としての時間を確保していたのである。

そんな厳格さを絵に描いたような新田次郎にも、一つだけ弱点があった。引用文の中に出てくる「中学生の娘」つまり愛娘の咲子を、この上なく可愛がる父親であったことだ。

「うちの咲子はかわいいな、おめめはぱっちり母さんに、ほっぺはばら色父さんに、ほんとにほんとにかわいいな」。こんな自作の歌を、家の廊下を歩きながら、しかも咲子が高校生になっても歌っていたという。

父は娘に文章指導もした。そして自分の死後、「新田次郎はこうやって小説を書いていたということをチャキ(咲子)は覚えていて、書いておくれ」と娘に託している。

そうして娘がものした本『父への恋文・新田次郎の娘に生まれて』藤原咲子著を、いま手元に開いて眺めていると、暴風雪の吹き荒れる山岳を描いた小説家が、温かな家庭人であったことが春の陽だまりのように伝わってくる。新田次郎が没したのは1980年2月15日、67歳であった。

(埼玉S)