【大紀元日本1月13日】
雪擁山堂樹影深
檐鈴不動夜沈沈
閑収乱帙思疑義
一穂青灯万古心
雪は山堂を擁(よう)して樹影(じゅえい)深し。檐鈴(えんれい)動かず、夜沈沈(ちんちん)。閑(しずか)に乱帙(らんちつ)を収めて、疑義(ぎぎ)を思う。一穂(いっすい)の青灯(せいとう)万古の心。
詩に云う。降り積もる雪は、山の草庵を抱き、樹の影を深くさせている。軒先の鈴が鳴ることもなく、夜はしんしんと更ける。私は、とりちらかした漢籍を収めて、心静かに、書物のなかの疑問の部分を考える。すると、若い稲穂のようにまっすぐな青い灯のなかに、遠い昔の聖賢の心が見えてくるのだ。
作者は日本の菅茶山(かんさざん、1748~1827)。本名は菅波晋帥(すがなみときのり)という。江戸時代の漢学者は、中国風の一字姓を名乗ることが多かった。
茶山が出たのは江戸末期の備後福山である。当時の福山藩は、財政逼迫の極にあった。その原因の一つに、藩主の阿部氏が幕閣の中枢にあったため、江戸在住の期間が長く、領国へ戻って藩政改革に当たる機会が少なかったことがある。
その結果、福山藩内は武士も領民も荒れてしまった。そこで第4代藩主の阿部正倫(あべまさとも)は、領内の乱れを教育によって立て直すため、天明6年(1786)に藩校・弘道館を創設する。
庶民出身の茶山も、同様の考えを抱いたのであろう。はじめ京都に学んだ茶山は、天明元年(1781)に福山へ戻り、私塾を開く。茶山の私塾は寛政8年(1796)に福山藩の郷学として認可され、廉塾(れんじゅく)と改称された。
茶山は、弘道館にも出講しながら、廉塾で子弟の教育に努めた。また、山陽道を往来する文人の多くが茶山を訪ねたというから、その応対にも多忙な毎日であっただろう。
そのような日々であるからこそ、雪の夜、心静かに書見をする作者の姿が、この一首から浮かび上がってくるようだ。
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