人類史のなかの神韻(二)

【大紀元日本1月1日】狭い海を隔てて、日本は中国の隣にある。

それを喜ばしく思うか、不運に感じるかは、ここでは触れない。どうあっても移動できないという運命に従うのみである。ただ、私たち日本人が、彼の国の人々をどのように認識すべきかは、今一度、考えてもよいと思う。

残念ながら今日の両国関係は、互いの国の人々を好意的に見るのに不都合な状態にある。なるべく公平に判断するとしても、日本側が、先んじて悪いとは思われない。中国、というより、その中国を牛耳っている中国共産党が、わざわざ日本を刺激し、微妙なバランスを取りながら、わざと日中関係を悪くすることで自党(自国ではない)の延命を図ろうとしているところに問題がある。微妙なバランスとは、刺激しすぎると日本からの投資が細るので、一方で「民間友好」などをうたいながら挑発的行動を繰り返すことを指す。日本から見れば理解に苦しむ行動だが、そんな非常識も、延命に必死な中共には何の矛盾もない。

しかしながら、日本人の一部にも、中国人の可視的な断片だけを見て、その全てを否定的にとらえるとともに、それこそが唯一の正しい中国人観であると自認する人がいる。このような日本人の認識もまた、真の中国理解から遠ざかるものであろう。

本紙前号で、ラルフ・タウンゼントの著作『暗黒大陸 中国の真実』に少々触れた。

同書は中国人のマイナス面で埋めつくされた内容であるが、部分的には評価できるとともに、当時として貴重なルポルタージュであると言ってよい。とは言え、「中国人」という様々な相をもつ人々を、非文明で無知蒙昧な群集という土色のペンキで塗りつぶしてしまうのは、いささか無謀に過ぎる。

タウンゼントは、米国上海副領事(のちに福建省の副領事)として1931年から33年まで、中国に滞在した。その間に、第一次上海事変(1932)を体験している。

3年の滞在期間を、中国理解を深めるために十分とみるか、あまりに短いとみるかは、その理解の方法によって異なる。米国人であるタウンゼントが、欧米人の視点から、見たままの中国人、つまり想像を絶するほど不衛生な最下層でうごめく民衆の生き様をルポにまとめるためならば、3年でも足りたと言えるかもしれない。

しかし、中国という宇宙を、そこに生まれた人間と同じ立場に立って、自らの血肉にするごとく理解するのは、3年ではあまりに短い。否、欧米人である彼には、元々不可能なことであると言ってよいだろう。

中国人を「見たまま」に書くということは、我が国の夏目漱石もやっている。

漱石の『満韓ところどころ』より、一部を現代日本語で引用する。奉天(現、瀋陽)を訪れた漱石が、馬車をあやつる中国人の御者の乱暴さを不快に思いながら描写する場面である。

「現に北陵(瀋陽にある清朝皇帝の陵墓)から帰りがけに、宿近く乗りつけると、左側に人が黒山のようにたかっている。(中略)黒い頭のかたまった下をのぞくと、六十ばかりの爺さんが大地に腰をすえて、両脛を折ったなり前の方へ出していた。その右の膝と足の甲の間を二寸ほど、強い力でえぐりぬいたように、脛の肉が骨の上をすべって、下のほうまで行って、一所にちぢれあがっている。まるで石榴をつぶして叩きつけたふうに見えた。(中略)不思議なことに、黒くなって集まった支那人は、いずれも口をきかずに老人の創(きず)を眺めている。(中略)老人はどんよりと地面の上を見ていた。馬車に引かれたのだそうですと案内が言った。医者はいないのかな、早く呼んでやったらいいだろうにと、間接ながらたしなめたら、ええ今にどうかするでしょうという答えである。(中略)帽も着物も黄色な粉を浴びて、宿の玄関へ下りた時は、ようやく残酷な支那人と縁を切ったような心持ちがして嬉しかった」

漱石をテーマに日本文学を研究する中国人研究者は、往々にして、『満韓ところどころ』のこのような描写を取り上げ、「日本人が好む夏目漱石も、中国人蔑視の思想をもっていたぞ」と指摘する。(続く)

(牧)