神話伝説上の三皇の治世を継ぎ、中国を統一した五帝の最初の帝は、黄帝(紀元前2717?~紀元前2599?)である。黄帝は紀元前2697年に即位し、20歳だったという。この記述から推算すれば、黄帝は紀元前2717年に生まれることになる。
黄帝の事跡については、『史記』、『通鑑外紀』、『軒轅黄帝伝』、『路史』、『帝王世紀』等の古書にたくさん記述され、その出所はまちまちである。黄帝の事跡に関する内容のほとんどは大同小異である一方、異なったり食い違ったりするものも少なくない。主な原因として、歴史文明度の制限による口承上の誤差や関係史料の散逸、または流伝中における人為的な増減などが考えられる。そして、後に誕生した道教は、独自な立場と視点に立って黄帝を解釈するので、黄帝文化はよりいっそう複雑化、多元化されるようになってきた。
古書に黄帝の事跡に関する記述が多くある中で、司馬遷『史記』五帝本紀第一の内容は信憑性の高いものとして、従来重視され、調査研究や考証の有力な一つとされている。
司馬遷は、『史記』において資料の欠乏などの原因により三皇の項目を略し、五帝の黄帝から記述しはじめたのである。このことから見ても、司馬遷は『史記』に記されている黄帝の生涯や諸々の事跡の真実性を疑わないようである。
現在、黄帝に関する確かな史料が欠乏しているが、『史記』では黄帝の事跡が比較的に詳しく記されている。それらを通して黄帝の全体像をおおむね把握できることはもちろん、黄帝の生い立ちや諸功績に関する司馬遷の視点や態度もうかがえるであろう。以下はその大まかの内容である。
黄帝は少典の子で、姓は公孫、名は軒轅という。生まれながらにして神霊であり、幼少のころからものを言うことができ、また聖徳の素早いひらめきがあった。少年時代には敦厚で敏速であり、成人して聡明な人物になった。
当時は、神農氏の子孫の時代であったが、その徳は衰え、天下の人望を失っていた。諸侯はたがいに侵伐しあい、人民をいためつけたが、神農氏はそれを征伐することができなかった。そこで、軒轅は実戦の習練をして、天子に朝貢しない諸侯を征伐した。
諸侯はみな軒轅の徳に懐いて服従したが、蚩尤(しゆう)だけはきわめて暴虐で、征伐できなかった。ときに炎帝(神農氏)の子孫が諸侯を侵略しようとしたので、諸侯はみな軒轅に帰服した。かくして、軒轅は徳を修め、兵力をととのえ、木・火・土・金・水の五行の気を治め、五穀を植え、万民を鎮撫して四方の安定をはかった。熊・羆(ひぐま)・貔(ひ・虎または豹に似た猛獣)・貅(きゅう・同前)・貙(ちゅ・虎の属)・虎(熊や虎などに命名された部隊の名前という)に戦闘を教え、炎帝の子孫と阪泉の野(河北省)に戦い、三度戦ってのち志をとげた。
また、蚩尤が天下を乱して命を聞かなかったので、軒轅は軍隊を諸侯から徴集してこれと涿鹿(たくろく)の野(河北省)に戦い、ついに虜にして殺した。諸侯はみな軒轅を尊んで天子とし、神農氏の子孫に代わらせた。
黄帝はまた、天下に順わないものがあるとそのたびに征伐し、平定するとたち去った。山を開いて道を通じ、一度も安んじて生活したことはなかった。東は海辺まで至り、丸山(かんざん・山東省)に登り、岱宗(たいそう・泰山)にも及んだ。西には空桐(くうどう・甘粛省)に至り、鶏頭山に登った。南は揚子江に至り、熊山(ゆうざん・湖南省)・湘山(しょうざん・湖南省)に登った。北は葷粥(くんいく・匈奴の別名)を逐いはらった。
また、諸侯を釜山(ふざん・察哈爾盟)に集め、符契(わりふ)を符合させて違命なきを確かめたり、涿鹿山下の平地に一時の都を定めたり、あちこち往来して一定の居所がなかった。駐屯する場合には、周りに軍兵をめぐらして自衛した。官名はみな雲(黄帝が位に即くとき景雲の瑞祥があったので、官名を雲に因んで名づけたという)に因んで名づけ、それぞれの官の長を「雲師」といった。左・右大監をおいて万国を監督させた。その結果、万国は和同した。
天下が和同すると、天子は天地山川の鬼神をまつって封禅(天子が行う儀式で、封は土を盛り壇をつくって天をまつること。禅は地をはらって山川をまつること。上古は、天子の巡幸にあたって天下泰平を謝して行われたが、後世は、皇帝がその国威を誇示する目的で儀式として行なうようになった)を行うのが例であるが、古来の帝王が行った封禅のうちで、黄帝のおこなったそれがもっとも盛大であったといわれる。
法鼎を手にいれ、また、策(めとぎ)を操作して暦をつくった。風後・力牧・常先・大鴻の四人を挙用して人民を治めた。天地の大法、陰陽五行の運行、生死の説、安危の説に順い、四時の宜にしたがって百穀草木を播植し、鳥獣虫蛾の類にまで慈愛をそそぎ、日月、星辰、水波、土石、金玉をも徳をもっておおい、心力耳目を勤労し、水・火・財物を節度をもって使用した。
軒轅は土徳の瑞祥(黄帝の時代に黄龍・地螾が現れたという)があったので、黄帝と号した。
黄帝には二十五子があった。そのうち、姓をえたもの(各地に封ぜられて、その地名を姓としたものという説と、同父なら同姓が当然のことで、この姓は生であり、由って生まれたところ、つまり母を弁別する所以だという説とがある)は十四人であった。
黄帝は軒轅の丘(河南省)にいたときに諸侯の西陵氏の娘を娶った。これが嫘祖(るいそ)である。嫘祖は黄帝の正妃で、二子を生んだ。その子孫はみな天子になって天下を保有した。長子は玄囂(げんごう)といった。これが青陽である。青陽はくだって諸侯になり、江水のほとりに居住した。次子は昌意といった。昌意もくだって諸侯になり、若水のほとりに居住した。昌意は諸侯の蜀山氏の娘を娶った。その名を昌僕といい、高陽を生んだ。高陽は聖徳があった。皇帝が崩ずると橋山(陝西省)に葬った。その孫で昌意の子である高陽が立った。これが帝顓頊である。
参考文献:『史記』上、中国古典文学大系10、平凡社、昭和50年12月。
(文・孫樹林)
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