黄帝と『黄帝内経』
『黄帝内経』は、現存する中国最古の医学書である。黄帝が著したものとされているが、秦漢時代の成立であり、しかも著者は一人ではなく、歴代の黄老医学者の増補によってできたものと思われる。
古くは『素問』(そもん)9巻と『鍼経』(しんきょう)9巻があったとされているが、これら9巻本は散逸して現存しない。現在、唐の王冰(おうひょう)が762年に編纂した『素問』と『霊枢』(れいすう)が元になったものが伝えられている。『淮南子』修務訓で指摘されているように、黄帝と名付けられているのは、医学は黄帝に源を求めるからである。
本書は、黄帝が岐伯(きはく)を始め幾人かの学者に日常の疑問を問うたところにより『素問』と呼ばれ、問答の形式で記述されている。『素問』は基礎理論であり、『霊枢』(『鍼経』)は実践的、技術的なことを記述している。
『黄帝内経』は黄老道家理論に基づいて創成され、陰陽五行説、藏象学説、病因学説、養生学説、薬物治療学説、経絡治療学説などが重んじられ、これらはいずれもが漢方医学の基本となったのである。
『黄帝内経』は自然、生命、心理、社会などをことごとく医学の範疇内にとり入れ、総体的、巨視的な視点から医学を述べる。それゆえ、『黄帝内経』は、身体観、医術のほか、中国古代の哲学思想や生命観、修錬実践などを窺うものとしても重要な文献であり、従来重要視されている。
後の道士の中で、黄帝の名を借りて著した方術の著書が多く現れ、『黄帝九鼎神丹経訣』、『黄帝龍首経』『黄帝宅経』『黄帝授三子玄女経』などがそのたぐいである。
黄帝の文化的貢献
黄帝の時代に入ると、中原は非常に安定し、文化も繁盛期を迎えた。
黄帝は、野を画し疆を分けて国民を管理し、荊山で鼎を鋳造し、華夏を九州に分けた。左右大監を設け、万国を監督させる。三公、三少、四補、四史、六相、九徳など120の官職を設け、国家を管理する。各階級の官員に、「六禁重」(声、色、衣、香、味、室は重いものを禁ずる)という規律をもって豪奢を防ぎ簡素で素朴さを要求し、かつ九徳之臣という官職を設けた。
黄帝は、徳をもって国を治め、徳を修めることで兵を興すという軍事思想を提出した。そして、徳をもって天下に施し、道をもって徳を修め、仁をもって行ない、徳を修めつつ義を立てるなどを治国の理念とした。
各部落を統一した後、黄帝は干支や暦法を推算し、国民に五穀を教え、船、井戸、荷馬車、弓矢を発明し、武器、製陶術、絹製造、羅針盤などを作り、楽器、音楽、文字を発明して広げ、医学を開創し、家屋や皇帝の住まいなども建設した。
黄帝の指導の下で、多くの臣下も黄帝の文化創造事業に関わった。数学では、史官の隷首が数学を作り、度量衡の制度を定めた。軍事では、軍師の風後が握奇図を演繹し、はじめて陣法を制した。音楽では、怜倫が谷の竹を取り、簫を作り、五音十二律を定めた。衣服では、元妃嫘祖が蚕を養い、糸で衣服を作った。医学では、岐伯と病理を検討し、最古の医書『黄帝内経』の誕生を促した。文字では、蒼頡が文字を作り、六書の法を具した。
このように、黄帝は政治、軍事のほか、文化的貢献も多かったため、中華の人文の始祖と崇められている。
黄帝祭りと黄帝紀元
黄帝以降の4人の五帝および、夏、商、周、秦の始祖をはじめ、数多くの諸侯がいずれも黄帝の子孫であるとされ、今も黄帝は漢民族の先祖として仰がれている。『国語』『礼記』などに黄帝を祭る記載があり、黄帝祭りの風習は現在まで続いている。
清代末期に革命派の提案により、黄帝が即位した年(前2697)を紀元とする「黄帝紀元」を中国の紀年法として実施したが、孫文が中華民国臨時大総統に就任すると、黄帝紀元4609年11月13日(1912年1月1日)を中華民国元年元旦とすると通達し、黄帝紀元の使用は停止された。現在も中国で黄帝紀元を回復し、黄帝紀年をもって中国の紀年法を作る提案が年々ある。
(文・孫樹林)
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