中国伝統文化と日本(四)
このテーマは、ひとまず前稿までで完結したつもりであった。ところが、本題が内包する世界はよほど広いと思えてきたので、前稿から年月を隔ててはいるが、同じ題名で継続させていただこうと思う。読者諸氏のご寛容を乞う次第である。
文化が見えなくなった時代
稿を進める上で常に留意しなければならないことを、ここで確認しておきたい。そもそも「文化」とは何かということである。
文化という日本語は今日ほとんど無秩序につかわれており、その時代の得体の知れない風俗の語頭または語尾にこの言葉をくっつけて、文化ナニナニ、ナントカ文化などと無限に造語しているようだ。(遠い昔の死語ではあるが、かつては文化住宅、文化包丁、文化鍋などもあった。日本語における文化乱用は、最近に始まったことではない)
確かに、現代日本語における文化とは、もはやカルチャーの訳語である概念さえ飛び越えて、生活一般をふくむ習慣であり、様式であり、さらには地域や世代を限定した流行や風俗と同義のものになっているらしい。明治の初年、外来語であるcultureに漢字の「文化」をあてて訳語としたのは坪内逍遥だといわれている。坪内逍遥が自覚していたかどうか知る術はないが、本来の意味、つまり漢語の語彙としての「文化」はカルチャーではなかった。
漢語の原義は「文によって化する」である。すなわち学問を積み教養を高めることによって人間を良い方向へ教化していくこと、言いかえれば、人間の道徳性を向上させるため、その対象に働きかける永続的な営みを指している。
諸橋轍次『大漢和辞典』によると、文化の第一義として「刑罰威力を用ひないで人民を教化すること。文治教化」とある。その用例が興味深いので一部を引用する。出典は今から二千年以上まえの『説苑(ぜいえん)』という漢籍である。
凡武之興、為不服也、文化不改、然後加誅(意訳。およそ武力が興ったのは、服従しない不心得者がいるからだ。これを「文化」しても改めないならば、最終的に誅罰を加えるのである)。
これを見ると、文化とは、武力に優先する重量感をもつ概念でさえある。その意味において、単純な事物を指すだけの名詞ではないのだが、あまりに奇怪なナントカ文化が乱立した今日の日本では、原義どおりの文化は、もはや見られなくなったに等しい。
伝統文化という中心軸
浄化する、緑化する、感化する、強化する、などの語は、いずれも人間や環境を本質的に変化させ、より良い方向へ導く作用を内包している。
文化も同様に「文化する」と読んだほうが分かりやすいのだが、現代日本語にそういう言い方はない。その結果、原義の用法は全く忘れられ、原義から外れた使用例が洪水のように広まってしまった。そのような現状をもとへ戻すことはできないし、あえてする必要もないだろう。しかし、この漢語の原義に立ち返らなければ、これから長く述べようする「伝統文化」の本質から遠ざかってしまう。
伝統文化とは、人類の長い歴史において、いかに時代が移り風俗習慣が変わろうとも、大切に守られ、継承されてきた精神とその具体的形象である。
それがなぜ大切にされてきたのか。前文に重複するが、それこそが人間の道徳性を高め、人類を堕落させないための中心軸であったから、ということに尽きる。
中心軸があってこそ、民族は誇りを持ち、他者にも敬意を払いながらそれぞれの社会を安定的に営み、国家を大過なく健全に継続しうる。換言すれば、国民が中心軸を失ってしまう、あるいは政治権力などにより軸が曲げられてしまうことは、その民族の存亡にかかわる重大な危機を招くことになる。
そうした意味において、中心軸である伝統文化の継承は不可欠であり、次世代への究極的な義務教育とも言えるだろう。
精神文化としての中国史
日本は7世紀の聖徳太子のころに、日本独自の象徴の名のもとに、中国皇帝の冊封体制から離脱した。(厳密に言うと、室町時代の足利将軍が「日本国王」の名義で明皇帝の冊封を受けている。対明貿易の実利をとった足利義満の政治的判断である)
中国と日本という通称を、とりあえず拙稿も使うことになる。ただし、文化の発信地である中国は、王朝ごとに断絶された歴史であり、歴代の中国皇帝にしても、北方の異民族もいれば、盗賊の親分から乞食(こつじき)まで、その出自はばらばらと言うほかない。
中国史とは、龍の胴体を輪切りにして並べただけの、全く連続性のない歴史なのだが、それでも彼ら、つまり中国人は「5千年の歴史と文明」といって、やたら自尊的に胸を張る。日本人が「あれ、中国は4千年じゃないの」とでも言おうものなら、彼らは顔を赤くして怒り出すに違いない。
この点、少々補足する。出土文物など考古学的な実証からすれば、日本人がよく言う「中国4千年」で間違いないのだが、彼らは三皇五帝の神話時代を含めて、その精神文化の累計を「5千年」と言っているのだ。当然、王朝ごとのブツ切りではない。彼らの主観のなかでは、立派につながっているのだから。
そうした中国人の頑固さに、私たち日本人が閉口することはない。歴史学という学問ならば、文献や出土品によるエビデンスが求められるが、民族の精神文化というものは、そもそも主観的産物であるとともに、大地に深く染みこんだ雨水のように絶対的実在であるという両面性をもつからだ。
これは、日本の歴史教科書に神話の記述はないが、日本人の精神文化のなかに厳然として神話の世界があり、そこから現代に至るまで象徴的存在の一系統があって今の日本国を形成していることと同様である。
歴史とは、歴史学ばかりで語れるものではない。王朝興亡をくりかえしてきた中国の場合、日本の万世一系に代わって、伝統に基づく精神文化こそが連続性のある歴史であると言えるからだ。
その意味で私は、中国人の言う「5千年」を肯定する。ただし、友情からの提言として、これだけは中国の人々に述べておこう。その「5千年」のうち、はじめの4930年と後の70年とを明確に分割することだ。
後の70年とは、マルキシズムという硫酸のような思想が中国に持ち込まれ、それによる独裁政権が、中国人の伝統的精神文化を焼き溶かしてしまった時間を指す。
歴史の巨大な皮肉としか言いようがないが、中国の北京に共産主義政権が建った1949年10月1日をもって、中国の伝統文化は一度「死んだ」のである。
日本文化のなかの中国
拙稿を進めている私は日本人であるが、伝統文化という中心軸を喪失して無道徳となった大陸中国の現状を、自身の深い悲しみとしている。
その悲しみを出発点として、中国伝統文化の意義を再認識するのが拙稿のささやかな願いである。私はそれを心から喜び、楽しみながら進めたいと思う。
日本史上における中国文化の受容は、大陸から海を隔てた日本にとって、程よい春風であった。この点は、大国の文化的圧力という強風をまともに受けねばならなかった朝鮮半島と根本的に異なっている。文化とは総じて良いものであるが、その風当りによっては、花びらにも石つぶてにもなる。
日本家屋に例えて言えば、中国から日本へ有形無形の文物が入ってくると、日本人はそれを庭に面した濡れ縁にひとまず置き、そこで取捨選択して有用なものだけを室内へ移した。日本になじまないもの、例えば宦官や纏足のごときは、異国の奇習として遠ざけた。
このワンクッション置くことが功を奏したのか、現代に至るまで、中国文化をこれほど大量に受容した日本が、あくまでも日本であって、朝鮮のような小中華にならなかったことは、歴史の興味として最大級のものであろう。
荒れる海を隔てた日本へ、中国文化の伝播を考えるとき、そこに経済的実利だけではない、人間の誠実な努力があったことを忘れてはならない。
6世紀に朝鮮半島から日本に仏教が伝わったとされているが、その後、租税を免れるための私度僧が増え、日本仏教の戒律が著しく弛緩した。そのため唐土から、鑑真和上が伝戒の師として来日したことは、その旅の労苦により両眼の視力を失ったことも含めて、よく知られている。
私たちはそこに、世界宣教を組織的に目指したイエズス会とは全く異なる、いわば人間の無私の心をみる。日本文化のなかの中国は、まさに日本人が喜んで受け入れた中国であるから、そのまま日本の精神文化の血液になった。
今日、日本という保存庫に残されていた中国文化が、それを失って瀕死の病人となった故国に何らかの良い教化を与えられるなら、伝統文化の逆輸血という意味で、壮大な救命措置も可能になるかもしれない。
波のように押し寄せる中国人観光客の皆さんには、せっかく日本に来たならば、そうした金で買えないお土産を持ち帰ってほしいと願うばかりである。