≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(77)

孫おじさんの死 再び「父親」を失う

 私がちょうど中学三年に上がった冬のある日、孫おじさんが病気で牡丹江の療養所に入院しました。肺気腫で、ぜんそくを患っていました。一時期、私は日曜日になると朝早くにバスに飛び乗り、牡丹江の療養所まで見舞いに行き、服を洗濯したり身の回りの世話をしたりしていました。冬休みに入ってからは、晩も病院に泊り込みで世話をしました。だんだん良くなると、私はやっと安心して学校に戻るのでした。

 私が見舞いに行くたびに、孫おじさんは喜びました。「この子は私の娘で、寧安一中で勉強しているんだよ」と医師や看護士に言っていました。孫おじさんも確かに、言ってみれば私の父でした。私が劉家を離れてからこの数年来、進学してからの小遣いや洋服はみんな、孫おじさんがくれたものでした。おじさんは、タバコを吸わず酒も飲まず、ただ私のことを気にかけてくれていました。

▶ 続きを読む
関連記事
孫おじさんの死 再び「父親」を失う 私がちょうど中学三年に上がった冬のある日、孫おじさんが病気で牡丹江の療養所に入院しました。
沙蘭はあたり一面真っ暗でした。すでに深夜になっており、明かりを灯している家はほとんどありませんでした。峰をおりる時、小走りに歩を進め、村に入ってからは真っ直ぐに趙全有の家を目指しました。
趙おばさんはひとしきり泣くと、泣き止みました。そして、こう話しました。「全有は帰ってきた次の日に発病し、高熱を出したんだよ。病院の先生は、ペニシリンを数回打てば良くなると言っていたけど、私はあんなものは信じない。
その時、私は溢れ出る涙を抑えることができず、弟に何を言えばいいかわかりませんでした。
帰って来る道中、張小禄おじさんが私に言いました。「全有は、養母に殺されたようなものだ。もし養母が金を惜しまずに、医者に診せて注射でもしてやっていたら、死ぬこともなかったろうに。
趙おばさんはこの時になって、私に養女にならないかと言ってきました。それは当時のように私を追い出すような口ぶりではありませんでした。
中学卒業と高校受験、趙おばさんの死 学校が始まった後、私たちは高校に進学するため、毎日勉強に忙しく、私はずっと沙蘭に帰ることができませんでした。
私たちが中学を卒業した57年は、高校の受験は大変に困難でした。
一言では言い尽くせない高校での運命 高校に上がった後、私は1年1組に配置され、関桂琴は2組でした。