≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(83)

趙おばさんはこの時になって、私に養女にならないかと言ってきました。それは当時のように私を追い出すような口ぶりではありませんでした。私に懇願して、「趙」姓になるよう頼み込んできたのでした。どのみち、劉家はすでに私を不用としていたので、私を娘にしようというのです。

 私は最愛の弟を亡くしていたので悲痛にくれていました。趙おばさんも息子を失って悲しんでいました。私は彼女を見て不憫になり、その要求を断ることができませんでした。私は趙おばさんに応えました。「私は永遠におばさんの娘になります。全有を育ててくれた恩に報います」。私は、学校を卒業したら、お金を稼いでおばさんの面倒を見る、晩年はしあわせに暮らしていけるように…と言いました。

 趙おばさんはすでに70歳を超えていました。おばさんは小さいときに天然痘を患い、顔いっぱいにあばたの跡が残っていましたが、当時はすでにそれがはっきりとは窺えませんでした。満面の皺だらけになっていたからです。私は、おばさんの老けて疲れ切った顔を見て、哀れに思いました。私は自らの悲痛を忍び彼女を慰め、学校が休みになったら、必ず会いに帰って来るからと約束しました。

 おばさんは間もなく寝つきましたが、私のほうはこの晩、趙家のオンドルの上に横になったまま、一睡もできませんでした。

 私は、私と長男の「一」が王家屯を離れるとき、生母と次男の「輝」が大通りの辻口まで送ってくれたときのことを思いだしました。そのときの別れが、私と「一」の生母との最後の別れになろうとは思っても見ませんでした。

 そのとき生母が私に言ったことは、今でも覚えています。弟はまだ小さいので、しょっちゅう会いに行ってよく面倒を見るようにと、私に言付けたのです。

 それからしばらくの間、私と弟は生母が迎えに来てくれるのを、首を長くして待ち望んでいました。しかしいくら待っても、生母は私たちを迎えに来てくれず、次第に、生母が「死んだ」という噂を信じるようになりました。と同時に、日本に帰れる望みも断たれたと感じ、そのうち、そういうことを思うこともなくなりました。

 今日、弟のそばに来てみると、弟は日本に帰るようにと言ってくれましたが、当時の私には正直いってそのような願望はありませんでした。唯一の弟が私から去った今、一人で帰ってもいったい何になるというのでしょうか。私は弟にも両親にも申し訳ない気持ちでいっぱいでした。私は姉として彼の面倒を見て、守ってやることができなかったのです。弟は本当に死ぬはずではなかったのです。もし少しでも医者に診てもらって治療していたら、そんなに痩せ細ることもなかったのです。

 弟の死は私にとって最も悲しく、また最も耐えられないものでした。私は今でも、弟が目を大きく見開いて私を見つめたまま息を引き取った情景が忘れられません。私は長男の「一」のことを思い出すたびに涙が零れてきます。

 弟に会いに沙蘭に帰った時、私は誰の家にも行かず、三日目にバスに乗って学校に帰りました。

 出発の日、私が街頭でバスを待っていると、李興忠おじさんの奥さんと張小禄おじさんの娘さんらが見送りに来てくれました。李おばさんは、「あまり悲しまないように。人は死んだら生き返ることはないんだから。運命だよ。全有はきっと生みのお母さんたちに会えるよ」と言って慰めてくれました。

 しかし、その時の私には、そのような運命は理解し難く受け入れ難いものでした。私は顔にこそ出しませんでしたが、心の中では趙おばさんに対する恨みで一杯で、冷静に物事を考えることができませんでした。一体、私たちのこのような境遇について誰を責めればいいというのでしょうか。私と弟の二人ともが、こんなにも頑固な養母に出くわしてしまったのです。

 私と弟が新富村に来てからというもの、ここの人たちはずいぶん私たちを助けてくれました。私は沙蘭の人たちに本当に感謝しています。私は感激と悲痛の気持ちを抱きながら、李おばさんたちに別れを告げ、学校に戻りました。

 (続く)