≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(85)
私たちが中学を卒業した57年は、高校の受験は大変に困難でした。
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(84)
中学卒業と高校受験、趙おばさんの死 学校が始まった後、私たちは高校に進学するため、毎日勉強に忙しく、私はずっと沙蘭に帰ることができませんでした。
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(83)
趙おばさんはこの時になって、私に養女にならないかと言ってきました。それは当時のように私を追い出すような口ぶりではありませんでした。
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(82)
帰って来る道中、張小禄おじさんが私に言いました。「全有は、養母に殺されたようなものだ。もし養母が金を惜しまずに、医者に診せて注射でもしてやっていたら、死ぬこともなかったろうに。
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(81)
その時、私は溢れ出る涙を抑えることができず、弟に何を言えばいいかわかりませんでした。
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(80)
趙おばさんはひとしきり泣くと、泣き止みました。そして、こう話しました。「全有は帰ってきた次の日に発病し、高熱を出したんだよ。病院の先生は、ペニシリンを数回打てば良くなると言っていたけど、私はあんなものは信じない。
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(79)
沙蘭はあたり一面真っ暗でした。すでに深夜になっており、明かりを灯している家はほとんどありませんでした。峰をおりる時、小走りに歩を進め、村に入ってからは真っ直ぐに趙全有の家を目指しました。
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(78)
弟の悲惨な死 孫おじさんから亡くなったてからというもの、私は総じて喪失感に似たものにとりつかれ、精神が不安定になり、何をしても手につきませんでした。
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(77)
孫おじさんの死 再び「父親」を失う 私がちょうど中学三年に上がった冬のある日、孫おじさんが病気で牡丹江の療養所に入院しました。
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(76)
私と弟は、水入らずで話すことはありませんでしたが、この目で弟を見ることができるだけで満足でした。
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(75)
中学で弟と再開 この年、私の弟である趙全有が第二中学に合格しました。第二中学の校舎は大きな川の辺にあり、私たちの第一中の学生寮の近くです。
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(74)
二年目の夏休みになると、寮に残って帰省しない同級生が増えてきました。私と同学年の一年一組の劉桂琴がいました。そして私たちより一学年下の曹煥玲と周静茹もいました。彼女たちは、妹のような存在でした。
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(73)
私が入学して間もない秋、東京の町に住む孫おじさんが様子を見に来てくれました。冬を越す綿入りの服、綿入れのズボンを買いに連れて行ってくれ、さらには綿入りの靴まで買ってくれたのでした。
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(72)
この度の先生の話は、出身により私に思想的な問題があるという批判教育で、中学に来てから初めて聞くものでした。私は本当にその当時、その本当の意味が何なのかを理解することができませんでした。
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(71)
中学に入って間もなくして、私もこの「共産主義青年団」に入りたくなりましたが、自分が日本人の子供で、劉家は共産党によって「富農」とみなされ、養父もまた日本統治下の満州政府で警察官をやっていたこともあって、いろいろと思い悩みました。
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(70)
当時、私の前の席に宮崇霊という女の子が座っていました。彼女は勉強が遅れており、特に数学が良くありませんでした。
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(69)
第五章 中学の時、孫おじさんと唯一の弟を亡くす「出自が道徳規準に勝る」という困惑に初めて直面する 1954年、寧安一中がちょうど建設されました。
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(68)
合格通知書が区政府に届き、区の教育担当助手が鐘家に報告に来てくれました。私は沙蘭地区の受験生の中でトップ合格でした。
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(67)
大きな劫難がやっと過ぎ去り、私はまた絶望の中で再び謝家に戻りました。心を落ち着け身を寄せることのできるところが見つかり、流浪の日々で疲れた心
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(66)
趙おばさんは、当時たしかに私を娘にしたいと考えており、何度も趙に改姓するよう言いました。ただ、私は趙になんか改姓したくありませんでした。
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(65)
風は次第に弱くなり、大雨もまた小ぶりになって、暴風雨が去ろうとしていました。夜が明けると、私は学校を離れ、川の南にある趙おばさんの家へ向かいました。
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(64)
独りで身の拠り所を探す 養父は行ってしまい、私は一人残され、自分で沙蘭屯に入らなければなりませんでした。
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(63)
このとき、私は急に弟の趙全有の家を思い出しました。私は養父に、河南の元々私たちが住んでいた趙源おじいさんの家へ行ったらどうだろうかと聞いてみました。
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(62)
私は養母が追いかけて来るんじゃないかと心配で、足を緩めることはせず、できるだけ速く走ろうとするのですが、走ればまた転んでしまい、全身泥だらけになりました。
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(61)
私はなぜこのように冷静なのか分かりませんでした。養母はまだ私が逃げ出そうとしているのに気づいていないようでした。
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(60)
私はとっさに、どうしたらいいか分かりませんでした。その場を離れようとしましたが、足が動きません。たとえ本当に逃げ出しても、彼らはすぐに追いつき、私を捕まえることでしょう。
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(59)「災難がついに到来」
災難がついに到来 秋になると、養母は人に手紙を託して、私に一度帰るように促しました。我が家が新しい村に移ってから、私は一度もまだ帰っていませんでした。
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(58)
【大紀元日本2月1日】その頃、私は早朝と放課後にできるだけ家の仕事を手伝っており、李素珍おばさんはそんな私に大変満足していました。彼女はよく、仕事をしながら謝家のことや彼女自身の秘密をいろいろと話し
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(57)
【大紀元日本1月23日】時間が経つにつれて、私は謝おばあさんが李素珍おばさんに大変厳しい目を向けているのに気が付きました。李素珍おばさんには懇意にしている人がいて、呉亜洲といいました。遼寧省・奉天の