≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(80)

趙おばさんはひとしきり泣くと、泣き止みました。そして、こう話しました。「全有は帰ってきた次の日に発病し、高熱を出したんだよ。病院の先生は、ペニシリンを数回打てば良くなると言っていたけど、私はあんなものは信じない。だから、巫女さんを呼んできて見てもらったの。すると、全有は邪気に当たっているから、毎日自分が書いたお札を燃やして飲ませれば、だんだんと良くなると言うんだ」

 私は思わず趙おばさんに聞き返しました。「全有は毎日こんな黒い水を飲んでいるの?」おばさんはこう答えました。「毎晩飲ませているよ。すでに二ヶ月くらいかな。二三日前からちょっと良くなったみたいで、お粥も少しは口にするようになったんだよ。全有が、あんたに会いたいと言うもんだから、手紙をことづけて来てもらったのさ。今日の昼間も、お姉さんはまだ来ないの?手紙はことづけてくれた?と何度も言っていたね。一昨日西の院の張小禄の甥に手紙をことづけたよと言ったら、やっと安心して寝付いたんだよ」

 私は、趙おばさんがぶつぶつ言うのを聞きながら、弟のほうを見やり、とても辛くなりました。弟はあまりにも物分かりが良すぎて、言うことを聞きすぎたのです。さもなくば、どうして養母の言うことを聞いて、我慢しながらそんな黒い汚い水を飲んだりするでしょうか。

 自分で明らかに、病気になって熱が出たのを知っていながら、治療も受けられず、さらに耐え忍んでこのように汚い水を飲んだのでした。別に病気の弟ではなく、健康な人であっても、毎日のようにそんな黒い汚水を飲まされていれば、病気なって体を壊しても不思議ではありません。

 私は弟と大胆におおっぴらに連絡を取らなかったことを後悔していました。もし私が弟の病気をもっと早く知っていれば、医者に見てもらい、薬を飲ませることができたはずで、そうすれば、こんなに痩せなくても良かったはずです。

 弟は、私が打ちひしがれているのを見て、消え入りそうな声で言いました。「お姉さん、そんなに悲しまないで。お姉さん一人であっても、きっと日本に帰れるから。おばあさんや大きいお姉さんもきっと、お姉さんの帰るのを待ち望んでいるから。きっと帰ってね」

 弟の声には力がなく、一言しゃべるだけでもずいぶん力を振り絞っているようでした。本当にわずかの気力も失せてしまった様子でした。私は小さな声で、「話さなくていいからね」と言いました。そして、彼の手と足を擦ってやりました。

 弟はしばらくするとまた口を開きました。「お姉さん、お母さんはぼくを医者に見せなかったけれど、ぼくのことをずいぶん可愛がってくれたんだよ。だから、お姉さんがお金を稼げるようになったら、お母さんにも少しあげてね。報いるために…」

 私は弟の話を聞いて、いっそう辛くなりました。まるで、弟がすぐにでも私たちから去っていくような気がしたからです。私はそれ以上弟に話をさせないようにしました。しかし弟は、何か安心できないかのようで、また続けたのです。「お姉さん、お母さんがお姉さんを追い出したことを、いつまでも根にもたないでね。お母さんを恨まないで。ぼくがいなくなったら、お母さん一人になるから、かわいそうだ。ぼくの替わりにたまには会いに来てよ…」。弟の当時の話は、今もなお、鮮明に記憶に残っています。

 (続く)

 

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はじめに: もし私が依然、普通の人と同じ考え方であったなら、八歳のときに家族と生き別れ、死に別れて以来、数十年にわたって心の中に鬱積しつづけた傷を解きほぐすことはできなかったでしょう。
趙おばさんはひとしきり泣くと、泣き止みました。そして、こう話しました。「全有は帰ってきた次の日に発病し、高熱を出したんだよ。病院の先生は、ペニシリンを数回打てば良くなると言っていたけど、私はあんなものは信じない。
帰って来る道中、張小禄おじさんが私に言いました。「全有は、養母に殺されたようなものだ。もし養母が金を惜しまずに、医者に診せて注射でもしてやっていたら、死ぬこともなかったろうに。
趙おばさんはこの時になって、私に養女にならないかと言ってきました。それは当時のように私を追い出すような口ぶりではありませんでした。
中学卒業と高校受験、趙おばさんの死 学校が始まった後、私たちは高校に進学するため、毎日勉強に忙しく、私はずっと沙蘭に帰ることができませんでした。
私たちが中学を卒業した57年は、高校の受験は大変に困難でした。
一言では言い尽くせない高校での運命 高校に上がった後、私は1年1組に配置され、関桂琴は2組でした。
寧安一中の時に、孟先生以外で私の面倒をいろいろと見てくれたのは校長の王建先生でした。
文化大革命の間、王建校長はすでに異動していて、寧安一中を離れていました。