【大紀元日本10月7日】
3.党の話を聴け、党について行け
2)「党の話を聴く」は人々に何をもたらしたのか(続き)
八九年の学生運動で打出したスローガンは「腐敗に反対する」「官倒(※)に反対する」である。政府に対しては正真正銘の協力と率直な態度を取っている。学生と一般市民は、「平和、理性、非暴力」を堅持することで一致した。学生の代表は上申書を手にして人民大会堂の前に長時間に跪くほどであった。そして5月23日、学生らによる自発して張ったピケット隊は天安門に飾った毛(沢東の)像を汚した3君子を警察署へ引き渡したほどであった。しかし、このようにしても、10日後、中共の軍隊は天安門を血まみれにしてしまった。
共産党が演じたこれら一つ一つの人間悲劇のうち、特に言及しなければならないことは以下の二つがある。
反右派闘争の中で、知識人が自己保護するため、命をかけるほど自分の「積極性」「革命性」「党について行く決心」を表現しようとする。しかし、(右派)指標がすでに決まっており、いくら表現しても無駄である。57年10月11日、北京青年団中央大会堂で青年作家の批判集会が行われた。ある作家は壇上で有力な批判発言をした後、壇上から降りようとしたとき、熱烈な拍手を受けたその瞬間、突然北京市文聯の事務局長は大声で次のように宣告した。「同志たち!彼のための拍手はもうやめよう、彼の見せ掛けに騙されるな、彼―彼はすでに右派分子に分類されたのだ!」。
1967年8月5日、劉少奇は批判を受けた後、弁公室へ押さえ込まれた。彼は「中華人民共和国憲法」を取出し、「私は中華人民共和国の主席であり、彼方たちは私個人に対してどうであっても構わないが、しかし私は国家主席の尊厳を守らなければならない。誰が私の国家主席の職務を罷免したのか。審判が必要としても、人民代表大会を通す必要がある。彼方たちのこのようなやり方は、我々の国家を侮蔑しているのだ。私個人も一人の国民であり、どうして発言させてくれないのだろうか。憲法は国民の人身不可侵の権利を保障している。憲法を破壊する人は必ず法律により裁かれる」。感慨深いのは、劉少奇はここまで追い込まれたとき「憲法」を保護することを始めて思い出したのだ。中共は政権を収奪した後、それほど多くの運動を繰り返し、数え切れないほどの人民を殺し、中共第2号と言う地位の持ち主劉少奇はその過ちの責任から逃れることあるまい。彼は「党の話を聴い」て、他人を批判するとき法律を守ろうと言わんばかり、自分が批判されるとき初めて憲法を守ろうと思ったわけだ。
「党の話を聴き、党について行く」では、人は皆良い結末を訪れることはないと言うのは、その必然性がある。
第一に、中共は闘争(思想)を持って家を興し、闘争(思想)を持ってその政権を維持せざるを得ないのである。「革命の肉絞りマシン」が一旦稼動させば、もう止まることができない。その過程においては、すべての人が被害者にならなければならない。ただ時間の問題だけである。群衆が群衆を闘争させるのが中共の得意技であるが、しかしはっきり言えば、挑発された群衆は、中共に利用される道具に過ぎないのである。利用の価値がなくなれば、軽い場合は見捨てられ、重い場合は批判され或いはスケープゴートのように殺され群衆の怒りを冷める。従って、「他人を害し始め、己を害し終え」るのがこれらの団体の宿命である。「作法自斃(自縄自縛)」が言ってある故事はこのことであろう。秦の国で変法(法律改革)を行った商鞅氏は、秦孝公死んで後に逃亡生活に強いられ、逃亡中宿泊を探すときに、店長に言われたのが、「商君の法律によれば、旅館は身分証明を持っていない者を宿泊させたら店長が罰則を受けることになる」。結局、商鞅が頒布した残酷な法律により自己を害してしまった。中国人がよく「石を持ち上げて自分の足にドシンとぶつかる(自業自得)」という諺を言う。これは正に闘争のメカニズムから闘争の発起者への反作用現象である。上記で提起した二つの事例はこの現象に生々しい実証を与えている。
第二に、中共は一党の絶対的権威を樹立する必要があり、如何なる党員の利益、党の最高指導者の利益を含む、すべてが「党」の利益に服従しなければならない。従って党が打撃する対象は任意性を持っている。共産党の一党的専制に脅威した或いは党がそう感じた如何なる個人や団体が粛清されるばかりではなく、本当に敵が存在しなくても、中共は一定時間を経過したら、敵を作り上げて、民衆の恐怖の記憶を呼び戻してその権威を強固させる。随時に党が定義される敵になる可能性があると言う普遍的な恐怖の中で、人々の唯一の自己保全のできる道とは、党の思いや行動をできるだけ推し量るようにして「党」よりも「党」になり、「党性」が自分の唯一の行動指針にさせることである。皆も分かるように、人の身体は一つの肉体に過ぎない。人の真の生命はその人の精神と魂にある。魂のない肉体はただ動物と異がないのもとなる。「党」との一致を保持する努力の過程の中で、人々が正しく自分の精神的命を扼殺しようとしている。本当の自我と敵に為している。この意味からすれば、中共の権力闘争の中で最後まで生き残った勝利者は同様に失敗者でもある。何故ならば勝利したのは「党性」であり、彼らの自己の「人性」ではないからだ。彼らの自己は本当に最早死んでしまった。
第三に、「党について行く」ことは中共の闘争の哲学を黙認することになってしまう。少なくとも客観的に中共の天・地・人と戦うエネルギーを増強してしまったと言えるのではないか。後を絶えない党内党外の闘争は伝統的道徳と人間関係を破壊し、社会風紀を破壊し、すべての人の生活環境を破壊した。懲らしめられる人の結末は当然悲惨であるが、懲らしめる人も良心の安らぎが失ってしまう。自分が懲らしめられることを防ぐために、他人に対して常に疑いや防犯をしなければならず、大変苦しめられた生活を営まざるを得ない。互いに闘争し合う過程の中で、人性の悪は最大化されて、嫉妬、貪婪、利己心、悪毒は中国人の日常生活の常態となってしまった。この環境の中で生きている人は皆党文化によってもたらした酷い結果を背負わねばならないのである。
※「官倒」とは:官僚が権力・コネを利用し闇取引をして不正な金をもうけること。
(続く)
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