【大紀元日本10月9日】見事な彫刻を施したケヤキづくりのだんじりが、古い街並みの残る岸和田の狭い通りを勇壮に駆け抜ける。スピードを落とすことなく狭い辻を直角に曲がる「やり回し」。地上4メートル近い屋根の上では、うちわを両手にかざして大工方と呼ばれる男が舞い上が
だんじり曳行(2010年)(大紀元)
り、左右に飛び移り、進路を確認し指示を出す。大勢の少年団、青年団の若者が前綱を引いてだんじりを走らせる。車上では和太鼓と鉦(しょう)、それに笛が加わり、その歩調やテンポを決める。若頭と呼ばれる経験豊かな壮年者たちが、曳行全体と前方の安全を確保する。左右の前車輪に挿した前梃子(まえてこ)と、後で舵取りをする後梃子(うしろてこ)で車輪の回転を制御しながら旋回させる。だんじりの大きさによっては500人から1000人を超える男たちが呼吸を合わせ、力を合わせてだんじりに息吹をあたえる。
300年の伝統を誇る岸和田だんじり祭りは上(川上)と下(川下)の2地域に分けて、9月と10月に行われる。当時の岸和田城主、岡部長泰が五穀豊穣を祈願したのが始まりという。今年も9月18、19日の両日に下の祭礼がおこなわれた。狭い街並みを20余りの町がそれぞれに所有する20数台のだんじりが、その勢いと華麗さを競うさまは壮観である。町中がまさに祭り一色になる。
伝統の担い手が少なくなり、お祭りの神輿を担ぐ人を確保するのも一苦労という話も聞く昨今、子供から老人まで、男も女も(女性は主に裏方のサポートをする)町を挙げて参加するこの祭りには、一体どんな秘密があるのだろうか。
並松(なんまつ)町の若頭を務める、岸田真樹さん(40)に話を聞いた。岸田さんが初めてだんじりの前綱を引いたのは小学校2,3年の頃。その後、今日に至るまで少年団、青年団、鳴り物、大工方、15人組といわれる後梃子、そして現在の若頭と30年余り休むことなく祭りにかかわり続け、祭りを楽しみ、その醍醐味を知り、一方でだんじり曳行の方法を順次学んできた。
岸田さんにとって、だんじり祭りとは一体どういうものかという問いに、しばらく
並松町の若頭、岸田さん(大紀元)
考えた後、「やっぱり、人との関係、絆やと思う」という返事が返ってきた。友達でもなく、同級生でもなく、地域全体のあらゆる人々との関わり合いが、だんじりを通して広がり、深まってきたというのだ。だんじりの世界は問答無用の「タテ社会」だとも。年長者の知識と意見は絶対的なもので、反論の余地はない。それは、時として命の危険さえ伴うだんじりの曳行や、「やり回し」を無事に行うための絶対条件なのだろう。喧嘩をしたり、叱られたりしながら、密な人間関係の中で社会生活を学び、成長していくのだ。
30年もの間には、やめたいと思うこともあったのでは、と聞いてみた。「ありましたね」と明快な答えが返ってきた。前綱を引いている間は思い切り体力を使い、楽しいだけの祭りだったが、18歳と異例の若さで大工方になり、楽しい祭りが一変に重圧に変わったという。責任の重さを感じ、怖さを知り、様々なプレッシャーで眠れない夜も続いた。大工方16年、その後は15人組のチームで一本の後梃子を操り舵取りをする。そこでチームワークの難しさも十分に味わった。
それでも、やめなかったわけは何なのか。岸田さんは、それも「絆」だという。
並松町のだんじりと屋根上の岸田さん(2004年)(岸田さん提供)
9月に入るとすぐに準備を始め、祭礼当日までは毎晩「寄り合い」と呼ばれる会合がもたれる。そこで喧々諤々、熱い議論が行われることは想像に難くない。そして、だんじり曳行が無事に終わり、だんじりを倉に納める。しかし、彼らの祭りはそれで終わるわけではない。祭2日間に岸和田を訪れる見物客は毎年60万人、いや、それ以上ともいわれる。一夜明けた町中は、まさに宴の後、ごみの山となる。それを全員で1日かけて片付け、きれいに掃除を済ませて、やっとその年の祭りは終わる。そして、お互いにねぎらい合い、打ち上げとなる。その時の達成感は、言葉では言い表せない喜びだという。苦労も、プレッシャーも全て忘れて、すがすがしい気持ちで日常の生活に戻ることができるのだ。
岸和田の祭りがこれほどまでに盛大に受け継がれていくわけは
だんじりを見る子供たち(2010年)(大紀元)
、一つにはこの優れた組織力にあることは言うまでもない。そして、それにもまして、岸田さんが「岸和田は特別です」というように、「他の町には負けられない」という岸和田人の「負けん気と見栄っ張り」が大きな牽引力になっていると見た。
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