石の里 ぬくもりの里:栃木県・大谷

【大紀元日本10月19日】情を解さない無粋な人間を比喩する言葉に、木石(ぼくせき)というのがある。そのうち木のほうはまだ軟らかく温かみがあるのに対して、石ははるかに無機的で冷感質なものという印象をもっていた。

しかしこの地を訪れて、石にも例外があることを知った。そのような「温かみのある石」を産する土地の名がそのまま石の通称にもなった大谷石(おおやいし)は、建築用の石材として今も日本全国から求められているという。

専門的には流紋岩質角礫凝灰岩というそうだ。今から約2千万年前、日本列島の大半が海中にあった太古の昔に、海底に堆積した火山灰が凝固してできた凝灰岩の一種であるという。それがここ栃木県中央部の大谷には、石材に最適な地層として東西8キロ、南北37キロにわたっている。岩盤の厚さは、地下300メートルまで達するという。

当然ながらこの一帯はほとんどが岩山であるが、意外なことに木も豊かなのだ。気の遠くなるような時間をかけて岩肌のわずかな表土に樹木の種が根を下ろし、岩を土として抱くように根を張った結果、中国安徽の黄山には及ぶべくもないが、私たち東洋人の嗜好によく合った緑豊かな美景の岩山となったのだろう。

大谷資料館では、大谷石の説明や石材の切り出しに関する展示のほか、大谷石が実際に採掘された坑内(現在は廃坑)を見学できる。足元を注意しながら階段を下ると、そこは巨大な地下空間だった。坑内の空気はひんやりと冷たい。平均気温が13度で通年ほとんど変わらないため、かつては政府米の保管庫としてこの場所を使っていた時期もあるという。

切り出したばかりの大谷石は、白でも灰色でもなく、あえて言葉で表現するならば青灰色または緑灰色をわずかに帯びた独特の風合いをもつ。さらに、温かみや優しさなども感じさせ、加工がしやすくて軽いなど建材としての利点も多かったため、明治、大正から昭和の初め頃まで、大谷は最盛期をむかえた。そのシンボルは、まさに大正13年に完成した帝国ホテル(2代目)で、翌年の関東大震災でも損壊しなかったため、軽く軟らかい大谷石が耐震性にも優れていることを証明したのである。

日本文化の中に「石の文化」というものがあるとすれば、自然石をそのまま使って庭石にしたり、荒加工したものを城の石垣に組んだりしてきた歴史が、それに相当するであろう。

これに対し、自然状態から定型に切り出して建材とする大谷石は、明治以降、近代西洋建築が日本に入ってきた頃からのものであり、「石の文化」としては比較的新しいが、昭和の高度成長期に自然建材から人工建材にその主流が移るまでの数十年間、まさしく時代を支える基礎石となったのである。

大勢の地元の人が、姿川の流れに沿ったバス道路の清掃をしていた。外来の者である記者へ、「やあ、こんにちは」という心地よい響きの言葉と笑顔を向けてくれる。この日の清掃は、住民によるボランティア活動の一環だそうだ。石の里・大谷は、その石肌のように温かく優しかった。

JR宇都宮駅西口より立岩行きバスで大谷資料館入口下車、徒歩6分。

昭和26年、大谷石の崖に、手彫りで建立された平和観音(大紀元)

大谷石の採掘により、空洞になった山の中腹(大紀元)

見学コースが設けられている地下採掘場(大紀元)

(牧)