【大紀元日本3月31日】竹山流津軽三味線とは、言わずと知れた津軽出身の三味線奏者、高橋竹山が確立した演奏法であり、音楽である。その魅力は、即興性にあるといわれる。従来、民謡の伴奏楽器であった三味線を独奏楽器として演奏し、津軽民謡の旋律とリズムをもとに、奏者独自のオリジナル曲を挿入したり、編曲することを可能にした。
高橋竹山は明治43年、青森県の小作農の家に生まれた。幼いころの病気で視力を失い、小学校には上がったものの続けることはできなかった。一人で過ごすことの多かった子供時代、裏山の小鳥のさえずりを聞き、祭りの笛・囃子に心を奪われ、門付けに回ってくる芸人の歌や三味線を愛したという。14歳になった竹山は自立の道として、当然のごとく三味線弾きを目指し、隣村のボサマの内弟子になった。ボサマとは旅から旅へ門付けをしながら歩く盲目の芸人で、男性はボサマ、女性は瞽女(ゴゼ)と呼ばれた。こうして竹山の三味線人生は始まったのである。(「高橋竹山に聴く」「津軽三味線ひとり旅」佐藤貞樹)
16歳で独立し、ボサマとして門付けをして生きる竹山の青春は「屈辱と貧困に満ちていた」「名人になるための三味線ではなく、差別とたたかい、生きるための三味線だった」(「高橋竹山に聴く」)という通り、当時の竹山にとって三味線は、今日を生きるための手段、あるいは武器だったのだ。
竹山の三味線に、民謡というよりジャンルを超えた普遍性を持つ音楽として共感する聴衆が増えてきたのは、戦後のことである。「良い聴き手が良い芸を育てる」と竹山自身がいうように、聴き手との緊張したふれ合いの中で生まれる音楽は、心や体に直接語りかける、現代に生きる音楽として、多くの若者の心をとらえた。
大阪、堺市の高齢者施設で行われた「伝統芸能鑑賞会」に出演中の竹山流津軽三味線師範、野崎竹勇雅 (本名・野崎千珠)さんに話を聞いた。千珠さんが津軽三味線に出会ったのは、今から23年前のことだ。転勤族の営業マンと結婚して間もなく、「幸せにする」と言ってくれた夫に従って青森に移り住んだ。新しい任地で仕事に専念する夫、慣れない土地で途方に暮れる千珠さん、悶々と日々を過ごす千珠さんの夫に対する信頼は揺らいだ。そんなある日「幸せになろうと自分で努力しなければ、手助けのしようがない」「邦楽が好きだと言ってたね」という夫のことばに、それまで眠っていた子供時代のことがよみがえった。三味線、琴、唄、どれも好きで「邦楽百選」というラジオ番組を何より楽しみにする子供だった。
千珠さんは、高橋竹山の直弟子である高橋竹善師の門を叩いた。次の転居までの短い期間ではあったが、竹善師の稽古日には朝から夜まで、他の弟子の稽古中もずっと師匠のそばを離れなかったという。その日から今日まで、23年の間に10回、北は青森から南は鹿児島まで日本中に居を移し、4人の師匠に就いた。その間に、師範となり、海外公演にも何度か出かけ、すでに高齢だった高橋竹山とも舞台をともにした。そこに夫の理解と大きな協力があったことは言うまでもない。「三味線は私の背骨です。三味線があるから、どこにいてもしっかり立って、その土地に根を下ろすことができます」と千珠さんはいう。
津軽三味線の好きなところは「小鳥のさえずり、風の音、波の音、蝶の舞など自然の情景が見え、聞こえること」だと言う。難しいのは「人の喜怒哀楽を表現すること」。青森に出かけ、「津軽三味線を弾く」と言うと決まって「これを弾いてみろ」と言われる曲がある。津波に襲われて悲嘆にくれる村人の心を唄ったという「十三の砂山」だ。「地元の人からは、なかなかオーケーをもらえません」と千珠さん。「この曲がこれからの私の課題です」とも。
高橋竹山も自伝の中で「ゆっくりしたものが面倒なんだ。糸一本、一本に心の一端を表現している曲が一番面倒だ」「いのちの音、心のある音、生きた音でなければ、聴く人の心に通い合わせることはできない」と語っている。
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