【大紀元日本5月14日】大正12年というと88年前になる。その9月1日の正午に近い頃、関東地方南部を巨大地震が襲った。地震による建物倒壊のほか、昼食時であったことが災いして、市街地の百数十カ所から出火。それが火災旋風となって一面を焼き尽くした。この災害の犠牲者は約10万人と言われるが、その多くは焼死であったという。
この関東大震災でも高さ10mを超える津波が起こり、沿岸部に大きな被害をもたらしている。津波は、三陸のみならず、関東でも他の地域でも起こり得るのだ。
身内のことで恐縮だが、当時20歳だった祖父(故人)がその震災の中にいた。場所は浅草だったらしい。混乱の中で若さを活かし、他の人を助けるのに奮闘したという話を、法事に集まった親類からわずかに聞いた記憶がある。ただ、祖父本人からは、当時のことは何も聞かずに終わってしまった。
ほとんど語ることのない寡黙な祖父であったし、孫の私は小さかったので、それを相手に話すわけにもいかなかったのだろう。しかし今思えば、そのような非常時の話も、祖父から聞いておけばよかったと思う。
東北の被災地では、亡くなられた方のほとんどが津波による犠牲者だったという。その数は桁外れに多く、被災範囲はあまりにも広い。2カ月経った今でも、毎日数体ほどのご遺体が発見されていると聞く。痛ましい限りで、ただ合掌するのみである。
しかし、三陸地方といえば歴史上多くの津波に襲われ、その悲しみを代償とする教訓を代々語り継いできた土地でもある。
「地震が起きたら高台へ逃げろ」。その認識は、おそらく日本一と言ってよいほど強く、地元住民は毎年欠かさず避難訓練を行ってきた。超級と名のつく防潮堤があるから油断していたという指摘もあるが、三陸の住民の防災意識が低かったわけでは決してない。
むしろ防災意識は、東京などの都会の人間に比べれば、はるかに高かったはずだ。
被害は甚大であり、その悲しみはあまりにも深いが、郷土の「語り継ぎ」を現代まで大切にしてきた三陸の人々は、あの極限の中にあって、本当に全力を尽くされたと思う。
だからこそ生き残った人々がいる。それが語り継ぐことの大切さを、何よりも証明している。
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