「ええじゃないか」の今

東京にも、こんな水郷の風景が残されていたかと思う。写真手前の岸辺は葛飾区の水元(みずもと)、対岸は埼玉県三郷市になるから、東京のはずれとはいえ、確かにここは東京23区内である。

 現在の正式名は都立水元公園という。古くは、その中心に位置する小合溜(こあいだめ)の名で呼ばれていた。私も、その旧名のほうが懐かしく、親しみ深い。

 個人的な思い出を述べると、ここは子供の頃から数え切れないほど訪れた格好の遊び場であった。

 40年ほど前になるが、その頃は昭和の釣りブームで、この小合溜はまさに「都民の釣り場」だったのだ。岸辺には鯉や草魚の大物をねらって釣竿が林立し、バケツと網をもった男の子たちが水辺の生物を探して、野生児のように走り回っていた。そのなかに私もいたのだが、とにかく底抜けに楽しい子供時代を味わったことが思い出される。

 新しい公園として整備された今日では、小合溜での魚釣りはできなくなった。(往時の名残か、違反者も少々いるようだが)ともかく釣竿の林は消え、静かに水と緑を楽しむ場所となった。

 それは結構なことだろうと思う。確かに当時、来園者のマナーが良かったとは言えない。ただ不思議なもので、40年前の賑やかさが今は懐かしい気もするのだ。

 賑やかさといえば、かつてこの水元公園が、日本の映画史に残る大きな貢献をしたことが思い出される。

 今村昌平監督による、1981年(昭和56年)の松竹映画『ええじゃないか』のロケ地に選ばれたのが、この場所であった。

 当時の日本映画は、すごいものだった。映画製作にあたり、この小合溜をなんと隅田川に見立てて、そこに木造の「両国橋」をかけるという、巨大なオープンセットを作り上げたのである。

 あの頃、泉谷しげるも桃井かおりも若かった。俳優陣も、今村監督以下のスタッフも、皆エネルギーのかたまりのような猛者ばかりであった。

 そのエネルギーが、映画『ええじゃないか』ラスト近くの、有名な群集シーンで爆発した。

 時代は幕末の混沌のなか。武士は政治に奔走し、闇の商人は機に乗じて巨利を得ようと画策する。一方、長く抑圧されてきた庶民は、空から神符が降ってきたことをきっかけに、男も女も、被差別民までも加わって「ええじゃないか」の狂喜乱舞となる。

 スクリーンいっぱいに湧き上がる大群集。今ならばCG技術でごまかすところだろうが、当時はもちろんフィルム撮影による実写である。とにかく、よくこんな迫力ある映像が撮れたものだと今でも驚く。想像するに、この水元公園が、ハリウッドのそれにも負けない一大映画撮影所になっていたのだろう。

 史実としての「ええじゃないか」は、実はよく分からない部分が多い。政治的な背景があるのかないのか、討幕派の陽動作戦か、あるいは統制力の弱まった幕府側が庶民のガス抜きのためにやらせたものか、現在でも諸説あるという。ただ、その広がりは相当大きかったようで、江戸から四国に至るまでの各所で同様の現象が見られたらしい。

 映画の『ええじゃないか』に戻るが、最後の場面は実に悲劇的に描かれている。膨張した群集を前に、もはや制御がきかないと見た幕府側は(史実にはないことだが)銃口を向けて一斉に発砲。「ええじゃないか」の群集は、血に染まって次々と倒れた。

 

 武力鎮圧は、日本よりも、中国における生々しい史実であり、現在でも起こりうる危険といってよい。

 ふと、こんな心配をする。今の中国で、中国版の「ええじゃないか」が全土に沸き起こったらどうなるだろう。抑圧する体制側にとって、庶民の「ええじゃないか」は恐ろしい。世界人口の5分の1にも当る群集が大乱舞を始めれば、それに恐怖を感じる一部の者たちが正気を失って、それこそ四方八方に向かって大砲でも乱射しかねないのだ。

 望ましいことではないので、これ以上、余計な想像はするまい。中国が速やかに次の歴史的段階を迎えられるように、救うべきは救い、整理すべきはきちんと整理するよう、日本も責任ある行動をとる必要がある。おそらく、そのように定められた道に従って、時間は粛々と進むだろう。

 6月10日、水元公園には美しい花菖蒲が咲いていた。「ええじゃないか」から30数年たった今も、花見に訪れた多くの人で、園内は賑わっていた。
 

 

6月中が見頃の、水元公園の花菖蒲(大紀元)

(牧)