【大紀元日本7月16日】魯恭は、東漢扶風平陵の人である。幼い頃から《五経》や《魯詩》などを学び、礼儀に精通し、名が広く知れ渡っていた。県の長官は彼の家が貧しいことを憐れみ、毎年お酒や食料を送っていたが、魯恭は受け取らなかった。魯恭の品行に敬服していた県の長官は、まだ幼い魯恭に役人の名だけでも先につけないかと進めたが、これも魯恭は丁重に断った。
魯恭は成長すると、中牟県で県の長官を務めた。彼は刑罰をあまり使用せず、道徳と教養をもって人々を感化した。魯恭の管理の下、人々は平和に暮らしていた。
ある日、亭長に牛を貸したのに、牛を返してくれないと牛の主が魯恭に訴えに来た。魯恭はすぐに亭長を呼んで聞いた。「人の牛を借りたのなら、使用後はすぐに返すべきである。直ちに牛を主に返し、謝罪すべきだ」
「私が牛を借りたなんて、とんでもない。あれは私の家の牛です」と亭長は言う。
それを聞いた牛の主は、「嘘だ、私の家から牛を借りたのに、なぜ認めないのだ」と言い返した。
亭長はすかさず、「そんなのは言いがかりだ、私がなぜ牛を借りなくてはならないのか」と反論する。
二人の言い合いを聞いた魯恭は溜め息をつきながら言った。「もう争わなくともよい。どちらが正しいにしても、責任は私にある。私の教化が不十分だったのだ。申し訳ない」。彼は役人の服を脱ぎ、辞職しようとした。
その場に居合わせた家臣や農民たちは、涙を流して彼を引き止めた。
牛の主は言った。「長官さま、牛はもういりません。決してこのことで辞職なさらないでください」
この場面を見た亭長は、「長官さま、私が間違っていました。私はつい、彼の牛を自分のものにしようとしたのです。牛は返します。私を罰してください」とようやく罪を認めた。
亭長は牛を主に返し、罰せられることはなかった。人々は魯恭の見事な裁きに敬服した。
ある時、中牟の隣の県でイナゴの災害が起きた。しかし、なぜかイナゴは中牟県に入ってこない。噂を聞いた河南の尹袁安は、その真偽を疑い、官_li_の肥親を遣わせた。
肥親は魯恭と共に畑へ視察に行った。桑の樹の下に座っていると、キジが一羽、近くに降りてきた。肥親が近くにいた子供に「なぜ捕まえようとしない?」と尋ねると、子供は「そのキジはもうすぐヒナを孵化するので、捕まえたら可哀そうです」と答えた。
肥親はその場を離れ、袁安に報告した。「中牟には3つの異なるところがあります。まず一つ目は、イナゴが侵害しないこと。二つ目は、鳥や動物に対する思いやりがあること。そして三つ目は、子供までもが慈愛の心を持っていることです。私がそこに長く居ることは、賢明な人の仕事の妨げになるだけです」。これを聞いた袁安は朝廷に対し、魯恭が才徳兼備の人であることを報告した。
魯恭は中牟での任期を終えると、朝廷で司徒に昇格した。漢和帝が位を継いで間もない時、兵隊を派遣して匈奴を襲撃することを考えた。多数の大臣が阻止したが、和帝は聞きいれなかった。魯恭は諦めず、和帝に進言した。「何年も国庫が不足し、百姓たちは生活に苦しんできました。今ようやく天からの恵みを得て、人々は平和な暮らしを迎えています。兵隊を発動させれば平和な暮らしを壊し、国全体が巻き添えに遭います。官_li_から百姓までが兵隊の発動に反対しています。陛下はなぜご自身の意見のために、万人の命を無視するのでしょうか。どうか天意にお従いください」
人々を大事に思い、広い心で導いたという魯恭の逸話は千年近くたった今でも語り継がれている。
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