盤古は、天地創造の神として、人類創造の神である伏羲や女媧よりも前に存在したはずである。しかし『史記』(前漢時代)や『風俗通義』(後漢時代)に伏羲と女媧についての記述があるが、盤古に関する記載はなかった。盤古については三国時代呉(3世紀)の徐整が編集した神話集『三五歴紀』にはじめて記述された。
しかし、早期の史書に記述が見られないからと言って、盤古は伏羲と女媧より遅く現れたとは限らない。なぜなら、盤古に関する伝説が、口承方式として限られた地域と人々の間に太古より代々語り続けられていた可能性があるからである。
中国の民間で盤古に関する伝説はいつの時代から伝え始められたのかに関しては、はっきり分からないが、文献に記述される盤古神話に関する遺跡は、中国の各地に散在し、北方より南方の方がはるかに多い。『中国古代神話文化尋踪』(閻徳亮、人民出版社、2011年10月)によると、広東省だけでもかつて191軒の「盤古廟」が建てられ、その中の一部は瑤族(ようぞく、少数民族の一つ)が建てたものである。史書や各地方の風土記、そして中国に広がっている盤古神話に関する遺跡や民間の伝説からみれば、盤古神話は中国のほぼ全土に広がっており、中国文化圏に生活する各民族の共通的な神話、伝説、信仰であることは確実である。
2、盤古神話の地域性と民族性
盤古神話の誕生地域について、さまざまな説がある。北方より南方の方が盤古神話、盤古文化が盛んであり、その内容もより詳細である。しかも最初に盤古神話を書物に記述した徐整が南方人であることから、近代の文学者の茅盾(まおとん、1896年~1981年)をはじめ多くの研究者は「盤古神話は南方で誕生した後、次第に北方に伝えられた」(『中国神話研究初探』、上海古籍出版社、2005年)とし、民族学、歴史学の専門家である馬長寿(まちょうじゅ、1907年~1971年)などの研究者は、「中国神話の中の盤古は、漢民族の神ではなく、漢族文化と瑤族文化は融合した後に、瑤族から漢族化したものだ」(『苗瑤之起源神話』、社会科学文献出版社、2002年)と主張する。そして、神話研究者の袁珂(えんか、1916年~2001年)をはじめとする一部の研究者は、「盤古とは、盤瓠の発音によるもの」であり、「盤古神話は、たぶん南方少数民族の神話の中の盤瓠神話を吸収し、造られたもの」(『中国神話史』、重慶出版社、2007年)とし、さらには何新(かしん、1949年~)などの研究者は、盤古神話は「中国の西南地域を通じて、中国の内陸部に伝わってきた西アジアとインド神話である」、あるいは「佛教とインド文化が中国文化と融合した産物である」(『諸神的起源』、三聯書店、1989年)と推論している。
これらの南方論に対し、前河南大学文学院教授の張振犁(ちょうしんり、1924年~)らは「盤古の天地開闢の神話は、南方に誕生したのではなく、北方の中原地方に誕生したものだ」(『盤古聖地論盤古』文史出版社、2006年)と述べた。
私は南方論より、張氏らの北方論に賛同したい。以下の諸点はそれの主な根拠となる。
第一、徐整家族の居住地域の変遷を考察してみよう。盤古神話を最初に記述した徐整は、南方人ではあったが、名門であった徐整の祖先はもともと今日の河南省洛陽や山東省に住居し、戦乱などにより南方へ移動したのである。今日の浙江省や江蘇省に徐家に関する伝説が多くあるし、徐家の廟も建てられたことから、史上においてその影響力がかなり大きかったことがうかがえる。したがって、名門の子孫として、徐整は先祖から代々伝えられてきた古き伝説を『三五歴紀』『五運歴年紀』に記述した可能性は否めない。
第二、文化と地理の次元から考察してみよう。徐整が記述した盤古神話の著作名は、『三五歴紀』と『五運歴年紀』となっているが、この「三・五」という数字の文化的含意は明らかに北方で誕生した道家の論理に由来したもので、南方の呉越文化とは全く異なっている。その傍証として、盤古は死後、その死体が「四極」「五岳」と化したと記述されるが、この「四極」「五岳」もいずれも中国古代の北方の地理文化の基本概念であり、しかも「五岳」の中、「南岳」を除けば、後の四岳はいずれも北方にあるのである。しかも、盤古神話が誕生した可能性が高い北方、すなわち黄河流域の太行山、桐柏山、および河南省の西部などには、神話の中に登場した地理、地形と一致しているものが少なくない。
第三、済源太行山盤古寺に関わる盤古の天地開闢の神話があるが、これは『三五歴紀』『五運歴年紀』の記述とほぼ一致している。したがって、この『三五歴紀』『五運歴年紀』の記載は盤古神話のもっとも古い形態の可能性が高いのみならず、徐整の盤古神話は南方系のものではなく、北方のものであることも反証されることになる。
第四、他の地域に比べて、盤古神話が誕生したと思われる中原地域では、龍の崇拝がかなり篤い。中国人は古来、自分たちを龍の末裔としているが、『三五歴紀』『五運歴年紀』などの書籍に「盤古氏龍首」と記述されている。桐柏山では、さらに盤古が龍の息子と言い伝えられ、桐柏山の盤古像の頭部には角が二つあるのである。
第五、桐柏山の地域では、旧正月は盤古の誕生日であり、この日になると、盤古が帰ってきて正月を過ごすことになるとし、人々は清浄しなければならないという民俗風習が代々伝えられている。そのため、この地域では正月から十日までの間に、遊芸など賑やかな活動を催さず、10日以降になってはじめて正月の雰囲気が現れるのである。
第六、この地域には、盤古村、盤古山、盤古廟、盤古墳、盤古神磨、盤古石箱、盤古井戸などなどの盤古に関する文化遺産が多々あり、物質文化財の次元からも盤古神話の発源地であることを物語っている。
以上に基づいて推論すれば、盤古神話は、中原地方の漢民族の伝説に由来し、その発源地は揚子江と黄河との中間地帯、すなわち中原地方の河南省西部にある、北の済源太行山から南の桐柏山あたりまでの間になるのであろう。そして、その中心が河南省の桐柏県と泌陽県の桐柏山一帯である確率はきわめて高い。
(文・孫樹林)
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