中唐の詩人であり政治家でもあった張継(ちょうけい)は、字は懿孫、詩人を輩出した名門に生まれた。幼い頃から弓馬の道に長け、文武両道であった。唐代中期の735年(天宝12年)、科挙で最も難しいとされた進士に合格した。しかし、安史の乱(755~763年)*が勃発、長安を離れ江南へと逃れた。
その代表作、「楓橋夜泊(ふきょうやはく)」は、都をはなれ船で蘇州にたどり着いた際、船の中で一夜を明かした旅人としての秋愁を表したものとされる。
楓橋夜泊
月 落 烏 啼 霜 満 天
江 楓 漁 火 對 愁 眠
姑 蘇 城 外 寒 山 寺
夜 半 鐘 声 到 客 船
月落ち烏啼いて 霜天に満つ つきおちからすないて しもてんにみつ
江楓漁火 愁眠に対す こうふうぎょか しゅうみんにたいす
夜半の鐘声 客船に到る やはんのしょうせい かくせんにいたる
現代語訳
三日月にカラスが啼き、霜が満天下に降りているような寒気がある。
川辺の楓(かえで)に漁火(いさりび)が映えて、旅愁を帯びた眠りに向かっている。
蘇州城外にある寒山寺*の夜中の鐘の音が、宿にしている船にまで響いてきた。
寒山寺*は、南北朝時代(439年~589年)に『妙利普明塔院』として創建したとされる。
「夜半の鐘声 客船に到る」の句について、宋代の文学家・欧陽脩(おうようしゅう・唐宋八大家の一人)は、「朝に鐘を鳴らし暮れには太鼓を鳴らすのが寺院のしきたりで、夜中に鐘を鳴らすわけがない」と指摘、論争を巻き起こした。
しかし、白居易の詩『宿藍橋對月』に「半夜鐘声後」の句があることで落着した。
宋代の詩人・陳正敏が姑蘇城の寺院に泊まった際、夜中に鐘の音を聞いたため、僧侶に尋ねたところ、「これは『分夜の鐘』で、姑蘇城の寺院ではよく鳴らすものです」と答えたという。
夜と朝(今日と明日)がすれちがう時間帯に鳴らすのが『分夜の鐘』とされた。鳴らし終えると翌日を迎える。大晦日の深夜零時をはさんでつくのが除夜の鐘のであるが、同様にその日の煩悩を取り除き、新たな一日を迎えるという意味が含まれていたのかもしれない。
*安禄山の乱――『唐の禄山』として、平家物語の冒頭「祇園精舎」に記されている。
*当時はまだ「寒山寺」とは呼ばれておらず、「寒山の寺」――晩秋の寒々とした山の寺という解釈もなされている。
(翻訳編集・桃子)
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