厳しいけど子供たちは優秀に
清朝皇帝の中で一番の教育熱心 康熙帝(こうきてい)の子育ての極意
清朝の最盛期を打ち立てた賢帝として知られる第四代皇帝・康熙帝(こうきてい)。当時の文献から、彼が大変教育熱心だったことが分かっています。康熙帝の教育方針は、中国歴代のどの王朝を見渡しても、類似するものが見当たらないほど稀有(けう)なものでした。
康熙帝には35人の息子と20人の娘がおり、孫は97人にも上るほどの大家族がいました。彼の教育方針は、まず第一に自らの言動で教え導くことです。
例えば、彼が狩猟や巡視に出かけるときは子供たちを引き連れ、共に行動して問題解決力と行動力を養わさせるようにしました。また、戦に出る時には皇子や皇孫を随行させ、共に戦況を見て作戦を実施しました。そして、康熙帝が重視したもう一つの教育は、勉学です。
清朝では、皇子や皇孫の学習する場所は「上書房」と呼ばれていました。康熙帝の時代、上書房は「暢春園」という庭園に設けられ、「無逸斋」と名付けられた学び舎で、康熙帝の子や孫たちは、その名の通り「無逸に(楽をせずに)」、日々勉学に励みました。1984年に出版された『康熙起居注(康熙帝の日常生活)』を始めとする一部史料には、彼らがどのように学習していたかが具体的に記されています。
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