「中国人として、事件の経験者として、中国の人々や若い世代に六四天安門事件の真相を伝える責任がある」。当時19歳で北京市在住の大学生・劉建(Jian Liu)さんはこのほど、30年前、天安門広場で撮影した写真2000枚を大紀元時報と新唐人テレビに提供した。劉さんは両社に版権を与え、写真の公開を委託した。以下はその写真の一部である。
1989年4月15日、改革派である胡耀邦・元党中央委員会総書記が心筋梗塞のため死去した。これをきっかけに、北京市にある大学の学生や市民が天安門広場に集まり、胡氏の追悼集会を行い、中国当局に「民主と自由」を求めた。この時大きな胡氏の肖像画が置かれた。
胡耀邦氏の告別式が人民大会堂で行われた4月22日前後、民主化を求める学生や市民が急速に増えた。22日、3人の学生は人民大会堂の階段にひざまずいて中国当局に陳情書を提出し、保守派である李鵬国務院総理(当時)との面会を求めた。しかし、最高指導部からは一人も現れなかった。学生らの不満が高まった。
市民からの声援
中国当局、「動乱」と定義
中国共産党機関紙・人民日報は同年4月26日に社説を発表し、学生と市民の民主化運動を「動乱」であると批判した。これに対して学生の不満が一気に噴出した。これ以降、全国各地で抗議デモが拡大していった。
学生らによるハンスト
1989年5月13日、人民日報に対して社説を取り下げるよう求めて、学生たちがハンストを敢行した。
5月18日、李鵬首相(当時)は初めて学生の代表と面会し、会談した。
5月19日、改革派の趙紫陽・党中央委員会総書記(当時)は、当時、党中央弁公庁主任を務めていた温家宝氏とともに、天安門広場でハンストを行う学生を見舞った。趙氏は後に失脚した。
抗議デモの拡大
学生を支持する国営新華社通信の職員
5月20日、中国当局は北京市に戒厳令を布告した。当局は、5大軍区から少なくとも30の師団を投入した。
つづく
(翻訳編集・張哲)