<天安門事件>民主化求める学生らの様子 30年ぶり公開(2)
「中国人として、事件の経験者として、中国の人々や若い世代に『六四天安門事件』の真相を伝える責任がある」。当時19歳で北京市在住の大学生・劉建(Jian Liu)さんはこのほど、30年前、天安門広場で撮影した写真2000枚を大紀元時報と新唐人テレビに提供した。劉さんは両社に版権を与え、写真の公開を委託した。以下はその写真の一部である。
大学生らが陳情
1989年4月15日、胡耀邦・元党中央委員会総書記が急死した。北京市内の一部の大学の学生らは天安門広場に集まり、胡氏を悼みながら、中国当局に対して自由・民主の推進や、政府高官の財産公開などを求めた。
4月20日、天安門広場の新華門で、警戒中の警官らが一部の学生にケガを負わせた。これがきっかけで、学生らの抗議デモは拡大した。一時、数万人が集まった。
4月21日夕方、北京市にある20校以上の大学の学生数万人が、天安門広場で民主化を求めるデモ行進を行った。
写真を撮影した劉建さんによると、21日、学生の民主化運動を支持してデモ行進に参加する市民も急激に増えた。「人がどんどん増えたため、一部の通りには人が立つ場所もなくなった。木や壁、道路の案内標識にのぼる市民がいた」
中国当局は4月22日、天安門広場に位置する人民大会堂で、胡耀邦氏の告別式を行った。数万人規模の学生が広場で集会した。学生代表である張智勇さん、郭海峰さんと周勇軍さんは同日正午ごろ、人民大会堂の東側の階段にひざまずき、中央当局に学生らの陳情書を受け取るよう求めた。学生代表らは45分間ひざまずいていた。
中国当局は学生らの要求を拒否した。これに対して学生らの不満が一気に高まった。
4月23日、北京市大学生自治連合会が設立された。中国政法大学の周勇軍さんが会長を務め、北京大学の王丹さんと北京師範大学のウーアルカイシさんなどが常務委員を務めた。
4月24日、中国当局が民主化の訴えを拒否したことに抗議して、北京38校の大学の学生、約6万人が授業をボイコットした。
4.27抗議デモ
4月26日、中国共産党機関紙・人民日報の社説で、学生らの民主化運動を「動乱」と位置付け、批判を展開した。これを受けて、北京市大学生自治連合会は新たに大規模な抗議デモを計画したが、各大学に阻止された。当時、中国政法大学の江平学長は「皆さんが抗議デモでケガをして血を流したら、親御さんにどう説明したらよいか」と話した。
4月27日午前、38校の大学(一部の報道では54校の大学)の学生数万人が、困難を乗り越えて、北京市の各主要幹線道路でデモ行進を行った。当時、数十万人の市民が沿道で声援し、デモ行進を見守った。
各デモ隊は、天安門広場につながる幹線道路、長安街で合流した。広場の近くにある当局の重要機関や要人らの住居のある「中南海」の入口、「六部口」で、当局は千人規模の軍兵士を投入し、学生らが広場に入らないよう警戒態勢を敷いた。兵士と学生が約1時間対峙したが、デモ隊は障害物を突破し、広場に入った。
多くの市民もデモ隊とともに、広場に入った。
この大規模な抗議デモを受けて、袁木・国務院報道官(当時)は公開談話を発表し、当局は学生らとの対話を歓迎するとの姿勢を示した。
4月27日当日、学生らの大半は朝8時に大学(の寮)を出発して、夜10時を過ぎて学校に戻った。抗議デモ中、歩き疲れて座り込んで休んでいる学生に、市民は「頑張って」と応援を送った。
4.27デモ行進は「六四天安門事件」のなかで、行進時間が最も長いデモ行進だったと言われている。劉建さんによると、一部の学生はデモ行進に参加する前、遺書を書いていた。
(翻訳編集・張哲)