【佛家物語】良い思いが福をもたらす 神馬に選ばれた商人
昔、釈迦の時代の中インドに波斯匿(はしのく)王が治世にあたっていた舎衛という国がありました。ある日、波斯匿王は自ら釈迦牟尼世尊の住居に来て、五體投地の礼をしながら、長々と世尊の足元に跪き、言いました。「弟子はこの上なく誠実な心で、都市の町でお布施のご飯を用意して仏様に供えます。国民が世尊を知るようになり、仏様の慈悲を浴びて、妖怪妖蠱から遠ざかり、五戒を守り、悪事をやめて、国の患いを取り除くことを願います」
世尊は言いました。「あなたは王として国民を率いて正道を歩む賢明な選択をした。あなたの行いは来世の福報をなし遂げるのだ」
波斯匿王は自らお布施のご飯を用意し、宴会の準備を行い、自ら街に出て世尊と衆僧を迎えました。世尊が席につくと波斯匿王は手を洗う水まで用意して世尊に捧げました。食事が終わると世尊は舎衛国の王と国民のために説法をしました。大勢の人々は佛陀の教えを静かに拝聴していて、その場面はこの上なく荘厳で盛大でした。
佛陀が説法している時、二人の商人がその場にいました。一人の商人は「佛陀はまるで帝王のようで、弟子らはまるで忠臣のようだ。佛陀が仏法を宣明すると弟子らはそれを誦記して宣揚する。この国の王様は本当に賢明な君主だ。佛陀の尊さを知っているので、自ら佛陀に仕えようとしているではないか」と言い、心より喜びが湧きあがり、佛陀の教えを恭しく拝聴しました。
しかしもう一人の商人の意見は全く違うものでした。彼はこう言いました。「おや、この国の王は本当に愚かなものだ。最高の権力と富貴を極めているのに、何を欲しがっているのか?佛陀は牛のようで、随行する弟子らは馬車のようだ。牛は馬車を引いてあちこちに行く。佛陀はそれと同じだ。人に祀られる価値があるのか?」
二人の商人は舎衛国を出た後、同行する途中で疲れを感じてある小亭で休憩することにしました。二人はお酒を飲みながら話し合いをしましたが、佛陀の悪口をした商人は不敬の思いをしたため、たくさんの邪霊を招き、飲み込んだお酒がお腹の中で烈火のごとく燃やされ、全身が麻痺されたように酔っぱらい、寝ている間に体が小亭外の道路に落ちてしまいました。次の日の朝、商人は急いで道路を走っていた大勢の馬車にはねられ死んでしまいました。
朝、もう一人の商人は同行の商人が死んだことに気づきました。殺人犯と誤解されるのを恐れて、商人は急いでそこを離れて他の国にたどり着きました。その国は王様が亡くなったばかりでしたが、後継者がいませんでした。
この国には未来を予言する讖書(しんしょ)があり、讖書には身分が卑賤な人がこの国の王となり、亡くなった王様が飼っていた神馬がその人の前でひざまずくと書かれていました。
諸臣は王様の車駕と印綬を持って、神馬を連れて新しい王様を探すために全国を行き渡りました。至る所で大勢の人が足を止めて神馬が王を探すのを見物しました。
商人もこのことを聞き面白いと思って見物に出ました。すると、商人を見た神馬は、ずいっと彼の目の前まで進んで跪きました。諸臣は王様が見つかったと大喜び、王様の沐浴の準備をして、彼を新しい王様と仰ぎました。
王となった商人は身分が卑しくて徳もあまりない自分がなぜ王になれたのかと疑問に思いました。「きっと佛陀の教えを恭しく拝聴したから神のめぐみを受け取ったんだろう」商人は諸臣を連れて舎衛国の方向に向けて叩頭し、佛陀にその因果を教えてもらうことにしました。
佛陀は商人の願いを知り、神通力を駆使して衆僧を連れて商人のいる国に現れました。商人は佛陀に聞きました。「私は身分が卑しくて徳もあまり積んでいないのに、なぜこの国の王になれたのでしょうか」
佛陀は答えました。「以前、舎衛国の王が街でお布施をしていた時、あなたは『佛陀は帝王のようで、弟子らは忠臣のようだ』と思って善因を植え、今日それの善果を収穫したのだ。『佛陀は牛のようで、弟子らは馬車のようだ』と言っていたもう一人の商人は馬車にはねられる悪因を植えたので、今は地獄で火の車にはねられている。いずれも自分が植えた因果なのだ。福の報いは善因から、悪の報いは悪因から生じるのだ。全てが自分によるもので、天龍鬼神が左右するものではないのだ」
『法句譬喩経』巻1より
(翻訳・編集 唐玉)