【佛家物語】釈迦牟尼と歌舞団団長の対話

釈迦牟尼はマガダ国に遊化(ゆけ)していた時、王舎城の北にある迦蘭陀(からんだ)竹林精舎に住んでいました。 ある日、当地で有名な歌舞団の団長が竹林精舎を訪れました。釈迦牟尼に礼儀をつくした後、「以前、芸能界の先輩方から、『芸能人が人前で懸命に演技をして人々を楽しませ、人々を笑わせれば、その因縁で芸能人は死後、極楽浄土に生まれることができる』と聞いたことがありますが、これは本当でしょうか」と敬意を持って釈迦牟尼の見解を謹んで尋ねました。

すると、「団長さん、この件に関する話をやめましょう。私の見解を聞くのもやめて下さい」と釈迦牟尼は団長の願い事を断りました。

しかし、歌舞団の団長は納得がいかず、立て続けに三回も尋ねました。仕方なく、釈迦牟尼は「ではお話ししますが、それについてあなたの思ったことも聞かせてください。自分の考えに従って素直にお答えください。過去には、世の中に悟りを開く人はいませんでした。誰もまだ貪・瞋・痴(とん・じん・ち)から解放されておらず、それを取り除くべきであることも知らなかったのです。人々はまだ貪・瞋・痴に縛られています。

芸能人が演じる歌、踊り、演劇、芝居などは、観客を惹きつけるために、貪・瞋・痴と切り離すことはできず、それらを演じるものばかりです。人々はこのようなパフォーマンスを観て、楽しんでいると同時に、貪・瞋・痴もさらに強化し、結局それらにもっと強く縛られてしまうことになりませんか?

まるで、紐で両手を後ろに縛られている人に、さらに苦しみを与えようと、ひもに水をかけ続けているみたいです。水を吸った紐は膨らみ、結び目もさらにきつくなります。結局、その人はもっと強く縛られ、もっと苦しむことになるのではありませんか?」と答えました。

「確かにその通りです」と歌舞団の団長は説得させられました。

「そのゆえ、まだ貪・瞋・痴の枷に縛られている衆生は、歌や踊り、芝居などに刺激されれば、さらに貪・瞋・痴を増していくのではありませんか?」歌舞団の団長は釈迦牟尼の教えを認めざるを得ませんでした。芸術家の歌、踊り、演劇は大衆を楽しませ、笑わせると同時に、貪・瞋・痴も一層助長させ、衆生に対する貪・瞋・痴の束縛力もさらに強化します。

釈迦牟尼は再び説法を続けました。「団長さん、芸能界の先輩方は芸能人は歌や踊りなどで人々を楽しませ笑わせれば、その因縁で死後は極楽浄土に生まれると述べていますね。このような見解は全く邪見です。率直に言って邪見を持っている人は死後、地獄か畜生道かの二悪道に落ちるしかできず、天国に昇ることはできないわけです」

釈迦の教えを聞いた歌舞団の団長は、すぐに釈迦の法に改宗しました。 この団長は最後に、阿羅漢の次元に到達したという説もあります。

実際、歌や踊りなど芸術的な形が、あらゆる邪見、誤謬、中共邪党の党文化、無神論、進化論など人間の道徳を堕落させるもの、あらゆるポルノやいやらしいもの、あらゆる執着心を強めるものなどの宣伝に使われれば、それは人間にとって有害なものです。しかし、人間の堕落に伴い、現在、人類の文学や芸術の作品のほとんどは、多かれ少なかれ不正なものを含んでいます。

特に今日の中国大陸では、テレビ(特に中共のCCTV)やラジオなどの様々なマスコミやメデイアで宣伝され、歌われるものは、あらゆる中共の邪党文化のものです。彼らは神仏を誹謗し、修煉を否定し、闘争を勧め、中共邪党や、その指導者を宣伝し、歴史を歪め、悪人を美化し、善人を弾圧しています。

これらの中共邪党の支配下にあるいわゆる番組は、人々を深刻に蝕む毒素で満たされています。世界を毒害する中共邪党に仕え、いわゆる芸能人やメディア関係者は悪業をしているのです。

一方、正統な伝統芸能や歌舞を使って、神仏を讃え、真の修煉者を称え、仏法を賛美し、邪悪を暴き、世界と衆生を目覚めさせ、あらゆる善良と正義を広めれば、それは人間と衆生にとって非常に有益であり、無限功徳のある偉大な善行でさえあります。現在、海外の法輪功学習者は、「真・善・忍国際芸術展」「天国楽団」「神韻芸術団」などの方法を用いて、世界と衆生を救い、衆生を目覚めさせています。未来の歴史は、これらの偉大なアーティストを永遠に讃えるでしょう。

(参考資料:《雜阿含第九○七經》)