【漢詩の楽しみ】野 望(やぼう)

東皐薄暮望

徙倚欲何依

樹樹皆秋色

山山惟落暉

牧人驅犢返

猟馬帯禽歸

相顧無相識

長歌懐采薇

 

 東皐(とうこう)薄暮(はくぼ)に望む。徙倚(しい)して何(いず)くにか依(よ)らんと欲す。樹樹(じゅじゅ)は皆秋色。山山(さんさん)惟(ただ)落暉(らっき)。牧人(ぼくじん)犢(とく)を驅(か)って返り、猟馬(りょうば)禽(きん)を帯(お)びて帰る。相(あい)顧みるに相識(そうしき)無し。長歌して采薇(さいび)を懐(おも)う。

 詩に云う。東の丘に立ち、夕暮れの野をはるかに望む。あたりをさまよっても、どこに身を寄せるところがあろう。樹木はみな秋の色となり、山々は落日の輝きに赤く染まる。牧民が、子牛を駆り立てて帰ってくる。狩人も、獲物の鳥を馬の背にくくりつけて戻ってきた。そうして家路につく人々を見ても、私の知り合いは一人もいない。私はただ、長く声を引いて歌をうたい、昔、首陽山で薇(わらび)を採っていた兄弟に思いを馳せた。

 作者は初唐の詩人、王績(おうせき 585~644)。唐の前王朝である隋(ずい)の最末年に官人となったが、高い志があってのことではなく、自身の生活の保障と酒食を得るために宮仕えしたにすぎない。特に酒が好きで、役所から配給される酒を目当てにしていた。老荘(ろうそう)の世界に耽溺する傾向がつよく、俗世にいて隠者のような気分を味わいたかったらしい。

 李白や杜甫といった唐代を代表する大詩人がでて、漢詩の全盛となる時代を、文学史では盛唐(せいとう)という。その少し前にあたる、王勃(おうぼつ)楊炯(ようけい)盧照鄰(ろしょうりん)駱賓王(らくひんのう)らの時代を初唐と呼んでいるが、初唐の詩の多くは、まだ近体詩としての詩格が整っておらず、六朝以来の古詩の風をそのまま引いている。

 だが初唐の詩がもつ味わいも、なかなか捨てがたい。飛躍を承知で言えば、初唐詩の素朴な魅力は我が国の『万葉集』の歌を連想させ、つづく盛唐詩が『古今集』の華やかさを、落日の輝きを放つ中唐から晩唐の詩が『新古今集』の枯淡と無常観を想起させて、日本人としては何とも興味深いものがある。

 表題の「野望」という詩も、そうした素朴さが光る一首といえる。現代語の意味である「野心ある望み」では全くなく、秋の広野を前にして孤高の自己をみつめる詩人の姿が浮かぶ秀作であろう。

 はるかな古代、武力をもって殷(いん)の紂王(ちゅうおう)を討伐する周の武王を諌めるため、首陽山の奥にこもって抗議の意を示した兄弟がいた。山のわらびを食するのみで、やがて餓死した伯夷(はくい)と叔斉(しゅくせい)の故事は、中国史をつらぬく不屈の精神の理想形として、あまりにも有名である。

 王績の生きた時代は、隋が滅び、唐が興る、まさに混乱のさなかであった。難を避けるため郷里の山西省へ隠遁すること約8年。やがて時代は唐に移り、召し出されて再び官人となったが、先述の通り、もともと宮仕えしたいわけではなく、官給の酒が目当てであったので、ほどなく窮屈な官界を辞して黄河のほとりの東皐(とうこう)に隠棲した。

 王績は、伯夷・叔斉のごとく諫(かん)を貫いて自死するほどの激しさはなく、むしろ三国時代における魏(ぎ)の「竹林の七賢」にならって、乱世を超俗的に生きようとしたらしい。

「竹林の七賢」といっても、乱世においてはなかなか命がけのポーズなのだが、王績の隠棲は、ようやく天下が落ち着き、史上名高い名君・太宗による「貞観の治」と呼ばれる唐の全盛期を迎えようとしていた時であった。

だとすれば、この詩を貫く思想は、秋の野を遠望する作者の孤独感であろう。東皐とは、ここでは地名になっているらしいが、王績が敬愛してやまない詩人・陶淵明(とうえんめい 365~427)の「帰去来の辞」に先例がある。

そのことをふまえて、今一度この詩を味読してみると、志を同じくする友を得られない詩人の孤独感が、およそ250年前の大先輩である陶淵明への憧憬となって、秋の静謐な風景とみごとに合致していることに気づくであろう。

(聡)

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